第309話 白い石と黒い石、港を喰う計画書
西暦1556年4月1日(弘治二年・卯月上旬/春)
関門海峡の潮は、春になると少しだけ匂いが甘い。
彦島の福浦に朝靄がほどけるころ、帆の低い船が一隻、すべるように桟橋へ入ってきた。船腹には「狂犬堂」の焼き印。荷は山。人も山。
「来た来た……来たぞ、これ」
祐筆桃が、荷札の束を抱えたまま青い顔で呟いた。
「桃、死相が出ておるぞ。働きすぎじゃ」
狂犬お市様が、にたりと笑う。言ってる本人が元凶なのに、心配の顔だけは一人前で腹が立つ。
船首から、ひょいと飛び降りた男が両手を広げた。
木下小一郎――狂犬堂本舗の技術者集団をまとめる長。堺の商人と職人の間を、針金みたいにするする通る、あの男だ。
「補給品、技術者、職人、それから狂犬堂職員! 全部まとめてお届けに参りましたぁ!」
「“まとめて”言うな!」桃の即ツッコミが飛ぶ。
小一郎は笑って、荷の内訳を口でさらさら言い始めた。漆喰の材料、釘鉄、砥石、滑車、縄、灯台用の油壺、薬草の種、炊事の鍋、あと……なぜか団子粉。
「団子粉は誰の趣味じゃ」
お市様が目を細めると、小一郎は胸を張った。
「士気の維持は兵站です!」
「よし、許す」
許すな。
桟橋の騒ぎを横目に、城内――商館の評定の間へ移る。
壁は丸太、床は板、豪華さはない。噂で聞く“派手好きの怪物”が住む館というより、堺の倉と尾張の作業場をくっつけた感じだ。だからこそ、入ってきた者ほど圧を受ける。ここは“暮らし”が戦に直結している。
畳の上に広げられたのは、周防・長門・豊前・筑前――そして洞海湾まで描き込まれた地図。潮流、干満、浜の硬さ、道の幅まで書き込まれている。
お市様は迷いなく指を走らせた。
「港町を整備する。家を強化する。海風は壁を削るからの。漆喰を、もっと強くしたい」
向こうで木下藤吉郎秀吉が、条件反射で背筋を伸ばした。何度も呼ばれている。嫌な予感がするのだろう。
「まず、平尾台の白い石が欲しい。彦島、門司、下関――ここを白で固める。石灰石じゃ」
「白い石……壁と蔵の命ですな」松平元康がうなずく。
「次に、飯塚の黒い石。炉の腹を満たす石炭じゃ。白と黒で鉄をさらに量産する。釘が増え、鎖が増え、鍬が増える。農も船も軍も――全部回る」
お市様の言葉は、戦の話に聞こえて、実は商いの話だ。堺の商人が思わず唾を飲む音がした。
「姫さま、鞍手郡に麻生という国人が居ると……」
小一郎が確認する。
「うむ。石を運ぶ道が要る。麻生を調略じゃ。大丈夫じゃろ」
お市様は秀吉を見た。
秀吉が、嫌そうに笑った。
「……また俺っすか?」
「おぬしの“べしゃり”で落とすんじゃろ? 門司でも言うておったぞ」
「言うてへん! 技能や! 営業力や!」
「なら営業してこい」
「言い方ぁ!」
評定の間がくすっと笑う。笑えるのは今だけだと分かっているからこそ、みんな笑う。
お市様はさらに地図を叩いた。
「あと、木材。筑前で切り出すより、土佐の木材が良い。ちょうどよいことに、長宗我部兄弟がわらわの下で修行中じゃ。長宗我部から木材買ってやれ。土佐は木が豊かじゃ」
「兄者、聞いたか。木の国の誇りや」
長宗我部親貞が小声で元親に囁く。
元親は、少し照れて目を逸らした。大人しい“姫若子”と呼ばれた面影がまだある。だが海を見てきた目になっている。修行とは恐ろしい。
「洞海湾を押さえる」
お市様の指が、筑前の湾をなぞった。
「ここを押さえ、港町を広げる。博多の客を吸収する。連合の港町を拡大する。元康、忙しいのは分かっておるが、風魔と灯台狼煙台を作れ。洞海湾を占領し、同心を配置じゃ」
元康が、静かに目を閉じた。
「……承りました」
酒井忠次が隣で、肩をぽんと叩く。
「諦めが早いのは、長生きの秘訣だな」
そのとき、風魔小次郎(覆面)が一歩、気配を消して進み出た。目元しか見えないのに、やけに“整って”いる。狂犬堂の化粧品を使っている疑いが濃厚だ。
お市様が小次郎を一瞥し、口角を上げる。
「遠賀川西の宗像がうるさいが……宗像の菊姫がじき彦島に入る。服部半蔵と、せつな、が連れてくる。皆、大切にしてやってくれ」
真理姫が小さく息を吸った。瑠璃姫と徳姫も顔を上げる。
菊姫の名には、どこか“海の鍵”の匂いがする。港を扱う者なら、なおさらだ。
「筑前~朝鮮~明。沿海州~朝鮮~筑前。航海路を握る鍵が菊姫じゃ」
お市様は言い切り、秀吉へ視線を戻した。
「麻生を調略したら、宗像へ行け。藤吉郎、調略じゃ」
「調略って言葉、軽く使いすぎやろ!」
「軽くない。重い。だから、おぬしが行け」
「うっ……」
秀吉は懐から金の瓢箪水筒を出し、ぐびっと飲んだ。
「負ける選択肢はない……千成り瓢箪……」
自分で自分に言い聞かせている。かわいそうである。
評定が終わり、外へ出ると、潮風が頬を撫でた。
裏の訓練馬場では、竹刀の打ち合う乾いた音。火縄銃隊の号令。新兵器――ファルコン砲の手入れ。
そのすべての背後で、蔵が増え、道が伸び、灯台が立ち、港が固められていく。戦国の勝敗は、刀だけでは決まらない。倉と石と灯りで決まる。
お市様は桟橋の方を見て、ふっと笑った。
「小一郎、よく来た。堺の匂いが増えれば、銭の回りも増える」
「姫さま、それ褒めてます?」
「褒めておる」
「なら、職人たちも喜びます。……たぶん」
桃が、荷札の山に埋もれながら叫ぶ。
「たぶんじゃない! 確定で喜ばせてください! あと私の睡眠も確保してください!」
お市様が、いつもの“にたにた”で振り返った。
「桃、安心せい。寝る間もなく働けば、眠いという感覚が消える」
「それ、ブラック企業の理屈です!!」
彦島の春は、今日も騒がしい。
そして狂犬の計画は、今日も静かに港町の形を変えていった。
祐筆桃の日記(弘治二年・卯月上旬/晴れ)
木下小一郎さま来着。補給と技術者と職人と職員が“まとめて”届いた。まとめられた側の気持ちは、誰も考えていない。
評定の間で姫さまは「白い石」「黒い石」「木材」「洞海湾」「博多の客」「宗像の菊姫」など、港と倉と道の話をされた。戦の話に聞こえるのに、実際は城下の暮らしと商いを一気に強くする話である。怖い。賢い。めちゃくちゃ怖い。
藤吉郎さまは、また調略に行かされることが決定した。本人は金の瓢箪水筒を飲んで気合いを入れていたが、顔はだいぶ泣きそうだった。
元康さまは灯台と狼煙台と洞海湾の配置で、さらに忙しくなった。戦国で一番危険なのは敵兵ではなく、姫さまの「忙しいが、やれ」である。
最後に一言。
姫さまは「桃、安心せい。働けば眠い感覚が消える」と笑った。
私は本日、確信した。狂犬堂は港と倉は強いが、労務管理は弱い。




