第308話 百歩の射場、狂犬と双星
西暦1556年3月31日(弘治二年・弥生晦日/春)
関門海峡の潮は早く、彦島の朝は湿り気を帯びた冷気をまとっている。
狂犬堂彦島商館――通称、彦島城の裏手にある屋根付き横長射場では、今日も乾いた火縄の匂いが漂っていた。
ここは百歩(約百八十メートル弱)離れた的を狙う訓練場。
もともとは兵の練度向上のために設けられたが、最近は様子が違う。
「今日も負けたら甘味じゃぞ」
銃を肩に担ぎながら、狂犬お市が笑う。
向かいに立つのは、雑賀衆の双子――
兄・鈴木重秀、妹・鈴木秀子。
通称、雑賀孫一。
「姫さん、毎日よう飽きへんな」
重秀が苦笑する。
「勝つまでやるのが、わらわじゃ」
「いや、孫一に挑み続けるのはどうかと思うけどな?」
藤吉郎が横で小声で言い、勝家に睨まれて黙る。
背景として、雑賀衆は紀伊の鉄砲傭兵集団。
堺との繋がりも深く、南蛮伝来の火縄銃をいち早く実戦化した者たちだ。
銭で動くが、誇りも強い。
その中核にいる孫一兄妹に、狂犬が真正面から勝負を挑む。
止まった的なら、まだ話はわかる。
「……止まった的は、つまらぬの」
お市はそう言って、突然走り出した。
「走りながら射つんか!?」
元康が思わず声を上げる。
お市は駆けながら火縄を吹き、
肩を落とし、呼吸を止め、
――パァン。
百歩先の的、ど真ん中。
孫一兄妹が、ほんの少し引いた。
「……あの人、変態やな」
秀子がぼそり。
「うむ、変態じゃな」
景虎が真顔で同意する。
だが、固定目標では、やはり孫一兄妹の精度が勝る。
お市は、今日も僅差で敗れた。
「むう……照星と照門を工夫したのにの」
お市は自作の簡易照門を撫でる。
銃身に小さな金属片を溶接し、狙いを一定化する改良。
戦国としてはかなり先進的な発想だ。
「姫さん、改良はええけど、基礎は積み重ねや」
重秀が淡々と言う。
その言葉に、お市の目が光った。
「……なるほど。基礎か」
嫌な予感が、射場に広がる。
お市はくるりと振り向いた。
「藤吉郎」
「はい、なんでしょう」
「今日のちゃんこ鍋に入れる鶏、三十羽連れてこい。生きたままじゃぞ」
「……は?」
射場に、ざわめきが起きる。
「ちょ、姫さん、なにする気や」
秀子が眉をひそめる。
「動く的じゃ。
百八十数えるうちに、どれだけ狩れるか勝負じゃ」
瑠璃姫が、目を丸くする。
「え、わ、わたくしが数えるのですか?」
「うむ。瑠璃、任せた」
藤吉郎は涙目で鶏を放つ。
ばさばさと羽音が響き、射場は一瞬で混沌になる。
「いくぞ、百八十!」
瑠璃が震える声で数え始める。
重秀がまず構える。
叫び声に動きが速くなる鶏。
パァン。
二羽。
「ズルいぞ! 叫ぶな!」
重秀が抗議する。
次は秀子。
兄妹がわーわー叫び、鶏が四散する。
パァン。
二羽。
「兄妹だろうが! 邪魔すな!」
秀子が本気で怒る。
そして、最後に狂犬。
後ろで孫一兄妹が騒ぐ中、
お市は無言。
呼吸を整え、
走る。
火縄が火を吹く。
一発。
二羽、貫通。
次の瞬間、銃身を下げ、反動を吸収。
二発目。
さらに二羽。
「……四羽」
勝家が低く呟く。
「貫通か……」
真田幸隆が感心する。
動く標的、予測射撃、貫通を計算に入れた軌道。
孫一兄妹が、じっとお市を見る。
「……姫さん、あんた、ほんまに医者か?」
秀子が聞く。
「うむ。医者じゃ」
「どこがや」
「命の扱いを知っておるから、撃ちどころも知っておる」
さらりと言う。
場の空気が、少し変わる。
堺や尾張の鉄砲町では、銭と技術が力だ。
だがここ彦島では、戦場と医療と商いが一体化している。
お市は笑う。
「よい勝負じゃ。今日はわらわの勝ち。
酒はそち等じゃな」
「ちっ……堺の甘味でええか?」
重秀が言う。
「尾張のういろうも忘れるな」
藤吉郎が横から口を挟む。
「ういろうは薬やろ」
秀子が真顔で突っ込む。
景虎が静かに笑った。
「……戦も、こうして競い合えるならばよいのだがな」
潮風が、射場を抜ける。
血ではなく、笑い声と銃声が響く春の彦島。
戦国は、まだ終わらぬ。
だが、百歩先を見据える者たちが、ここにいる。
祐筆桃の日記(狂犬記)
西暦1556年3月31日(弘治二年・弥生晦日)。
今日は狂犬様と雑賀孫一双子が、百歩射場で勝負。
負けたら酒と甘味。平和なようで怖い。
止まった的では飽き足らず、走りながら射撃。
その時点で十分変態なのに、鶏三十羽放つ暴挙。
瑠璃姫様が真面目に百八十数えていたのが一番の尊敬ポイント。
結果、狂犬様四羽。しかも貫通計算。
医者のくせに、命中精度が戦場仕様。
雑賀兄妹も引いていたが、楽しそうだった。
最近、狂犬様が笑っている時間が増えた気がする。
……たぶん戦の前触れ。
私は祐筆なので、鶏の後片付けは断固拒否したい。




