第307話 窓の外の胡散臭いジジイと、戦国を終わらせる話
西暦1556年3月30日(弘治二年・弥生末/春)
客間の空気が、いったん落ち着いた。
停戦の言葉は交わした。条件の骨子も見えた。あとは隆景が吉田郡山へ帰り、兄・隆元を説得し、元春の腕っぷしをなだめ――毛利としての“形”にするだけ。
隆景は礼を尽くし、座を立った。
「本日は、貴重なお時間を賜り――」
その時だった。
狂犬お市が、ふっと窓の方へ視線を投げた。
まるで、今まで話題にしてはいけないものを、わざと引っ張り出すみたいに。
「……隆景殿。帰る前に、一つだけ話しておくかの」
隆景の背筋が、無意識に硬くなる。
お市は、笑っている。
けれど、その笑顔は“診療”の顔だ。
人の腹を割って中身を見て、平然と縫える人間の笑い方。
「窓の外に二人の女の子がおろう」
隆景は、頷くしかなかった。
見ていないふりをしていたのに、言われた瞬間、視線が吸い寄せられそうになる。
「ジジイの世話を一生懸命しておる二人――
あれは大内義隆殿の娘、瑠璃姫と徳姫じゃ。三条の方の忘れ形見じゃな」
景虎が、静かに補足する。
「……姫君らは、今はこの彦島で医療を学んでいる」
「そういうことじゃ」
お市は、さらりと言い、そして“ジジイ”の方を顎で示した。
「で、あの胡散臭いジジイはの。本陣に倒れておった。
わらわに見つけられたから、生きておる」
隆景の胸が、どくんと鳴った。
父のことだと、分かっている。
それを、お市は“父”とは言わない。言う必要がないからだ。あるいは――分かった上で、わざと外しているのか。
「太股に銃創。血がよう流れた。しぶといの」
お市は、どこか楽しそうに言う。
自分の手術の出来を自慢する医者の顔だ。
「わらわの手術、薬、介護、食事で回復した。
熱が下がらず旅立ちかけたが――本人の生命力と、わらわと姫二人の献身じゃな。
汚物の処理も、着替えも、食事も、薬を飲ませるのも、支えるのも……全部やった」
隆景は、思わず口を開く。
「……なぜ、そこまで」
言ってから、しまったと思った。
“なぜ父を殺さない”と聞いているのと同じだ。
だが、お市は眉一つ動かさない。
「医者だからじゃ」
即答だった。
「生きておる者を、殺す理由がない。
それにの――」
お市は、窓の外の瑠璃と徳を見て、目を細めた。
「あの子らは、将来よい医者になろうぞ。わらわの弟子兼、娘じゃ」
徳姫が何か言って、瑠璃姫が笑う。
二人は、松葉杖の老人に「もう一歩ですよ」と励ましている。
老人は悔しそうに歯を食いしばり、しかし歩く。
隆景の喉が痛い。
お市は、ふいに話題を切り替えた。
いや、切り替えていない。隆景の心臓を狙って、まっすぐ刺している。
「そういえばの。瑠璃姫が言っておったわ」
隆景の目が、ほんの少し揺れる。
「大内義隆殿が、昔――“毛利の長男は良き息子、良き武士。養子に欲しい”と。
息子は亡くなったが、瑠璃が生まれ、徳もいる。
将来、瑠璃を嫁にして、大内を継いでもらえたら……陶と毛利で大内は安泰じゃ――っての」
隆景は、息を呑む。
知らない話ではない。だが、こんな場所で、こんな口調で聞かされると、意味が変わる。
お市は、にこにこしながら、釘を打つ。
「そちの兄、隆元殿はなかなかの良き大将じゃそうじゃの。
判断を間違えぬように、隆景殿が助けてやってほしい」
隆景は、頭を下げるしかなかった。
「……承知いたしました」
客間の空気が、少し重くなる。
ここから先は、停戦条件の条文より怖い話だ。
“戦国そのものをどう終わらせるか”の話になる。
お市は、指を折りながら言った。
「ここには、長尾、武田、北条、織田――わらわ。
各大名の最精鋭がおる。恨みがある者も多い。
わらわを良く思わん武士も山ほどおるじゃろうの。今川なんぞ、筆頭じゃ」
藤吉郎が小声で言う。
「筆頭っていうか、もう筆が折れそうっすけどね……」
「黙れ」
勝家が低く叱り、藤吉郎は肩をすくめた。
お市は続ける。
「じゃがの。戦国は、終わらさなければならぬ」
その言葉だけが、妙に静かだった。
狂犬の笑いも、ふざけたノリも消えた。
医者の声、そして“統治者”の声だった。
「誰かの統一より、制度じゃ。法じゃ。運用じゃ。
共に共有し、軍を統合させ、運用する。互いに後詰めをする。
恨みは、汗と共に消えてゆく」
景虎が、小さく頷く。
「……汗を流す場を作れば、恨みは薄れる。越後も同じだ」
お市は、最後に“商い”へ落とす。狂犬らしい結論だ。
「腹が満ち、蔵に銭が増えれば、血よりも――共に流した汗が、共通の財産になる」
隆景は、その言葉を噛み締めた。
父を殺さず、姫に世話をさせ、港を整え、関銭で銭を生み、法で縛り、汗で繋ぐ。
――狂犬は、勝つだけの怪物ではない。戦国を“終わらせる仕組み”を作ろうとしている。
お市は急に、また軽くなる。切り替えが狂犬だ。
「帰ったら、隆元殿よろしくの。
……わらわが下関まで送ろう。世界一の美女に見送りされて嬉しいじゃろ?」
「……っ」
隆景が言葉に詰まると、藤吉郎がすかさず煽る。
「殿! ここで照れたら負けっすよ!」
「黙れ藤吉郎」
真田幸隆が穏やかに叱る。穏やかさが一番怖い。
お市はニタニタ笑って、指を立てた。
「果報者め。わらわのファンに恨まれぬようにの」
隆景は、とうとう小さく笑ってしまった。
恐怖と緊張で固まりかけた心臓が、ほんの少しだけ溶けた。
(来てよかった)
そして同時に思う。
(……兄二人を説得せねば)
窓の外で、胡散臭いジジイが、もう一歩、踏み出した。
瑠璃と徳が「できました!」と笑った。
老人は悔しそうに、しかし少しだけ誇らしげに、顎を上げた。
隆景はそれを見て――初めて、視線を逸らさなかった。
祐筆桃の日記(狂犬記)
西暦1556年3月30日(弘治二年・弥生末)。彦島城。
小早川隆景さまが帰ろうとした瞬間、姫様が突然「窓の外の胡散臭いジジイ」講義を始めた。
あれ、絶対わざと。
隆景さまの心臓を、針でつつくみたいに丁寧に。医者の所業。
姫様いわく、ジジイは本陣で拾った。太股の銃創を手術して、薬と介護と食事で回復。
瑠璃姫さま徳姫さまは、汚物処理まで含めて全部やった。
(聞いてるだけで胃がキュッとなる。私は祐筆なので汚物担当からは逃げたい)
それと、姫様が言った。
「戦国は終わらさなければならぬ。統一より制度、法、運用。恨みは汗と共に消える」
……狂犬が、たまに“国の母”みたいなこと言うの、反則。
最後は「世界一の美女に見送りされて嬉しいじゃろ?」「ファンに恨まれるなよ」で締め。
隆景さま、ちょっと笑ってた。
帰って兄二人を説得する顔になってた。外交って、やっぱ胃に悪い。




