第306話 父が窓の外でリハビリしてる件(停戦交渉は心臓に悪い)
西暦1556年3月30日(弘治二年・弥生末/春)
小早川隆景は、潮の匂いを吸い込みながら、関船の舳先で眼下を見ていた。
関門海峡――潮の流れは相変わらず早い。海峡を挟んで、門司と下関が互いに睨み合う地でありながら、今は「睨み合う」より「動いている」匂いがした。
和布刈の城が見える。門司の町並みが見える。
下関の火ノ山城――赤間関の町――以前より、明らかに膨らんでいる。
(……戦で勝つだけじゃない。町を増やしている)
隆景は内心で舌を巻く。
戦国の港町は、軍勢の出入りで荒むのが常だ。だがこの景色は逆だった。倉が増え、船溜まりが整い、灯台と狼煙台が生きている。潮待ちの船が、落ち着いて停まっている。
「殿、彦島が見え申した」
護衛が言う。隆景は頷き、目を細めた。
彦島の狂犬堂商館――彦島城。
城と言っても、石垣の天守ではない。海と陸を結ぶ、商いと兵站の要塞だと聞く。
先触れはすでに出してあった。
船が着くと、島の方で何かが動いた。
「……上げ下げの、吊り橋?」
隆景は思わず口にした。
門が開くだけではない。橋が降りてくる。しかも、ただの板橋ではない。門の前に“仕掛け”がある。
「ここまでやるのか……」
護衛が苦笑する。
水門のあたりでは、水車が回っていた。潮と川の水を受け、規則正しく回転している。水車の音が、城の息づかいのようだ。
(石を積むより、先に道と水だ。……いや、これは“統治”の音か)
隆景は、己の胸に湧く感情の名を探し、少し遅れて気づく。
――羨望だ。
港で迎えがあり、隆景一行は城へ通された。
客間とされる建物は、丸太を活かした二階建て。大きな家、と言えばそれまでだが、隅々まで手が入っている。柱は太く、床はきしまず、窓は風をよく通す。
(噂と違うな)
巷ではこうだ。
狂犬織田市――派手好き、銭好き、贅沢三昧、金銀銭を湯水のように使う怪物。
だが、目の前は質素で実務的。見栄よりも“働くための器”だ。
案内役が襖を開けた。
「小早川様、お通し申します」
隆景が一歩入ると、すでに客間には人が揃っていた。
狂犬お市。
長尾景虎。
武田義信、飯富虎昌、真田幸隆。
風魔小次郎(覆面の奥、目元だけで圧がある)。
柴田権六勝家、木下藤吉郎。
松平元康、酒井忠次。
(……役者が揃いすぎだろう)
隆景は内心で息を呑む。
ここは交渉の席のはずだ。なのに、戦場の主役が客間に並んでいる。
狂犬お市は、にこにこと笑っていた。
その笑顔が、噂と同じで噂と違う。美しいのに、油断すると噛まれる笑顔だ。
「よく参ったの、小早川。遠路ご苦労じゃ」
「毛利小早川隆景、参上仕りました。……本日は、停戦の件にて」
丁重に頭を下げる。
顔を上げた瞬間、隆景の視界の端で、窓の向こうが動いた。
――松葉杖。
――よろよろ、と見せかけて、妙に真面目な歩幅。
――そして、その左右を支える二人の少女。
隆景の喉が、きゅっと縮む。
(……父上?)
窓の外。庭先。
松葉杖をつき、瑠璃姫と徳姫に介助されながら歩行訓練をする老人。
その横顔、背の丸まり方、目の据わり。
――毛利元就。
隆景は、全身の血が一瞬で引くのを感じた。
だが、顔に出したら終わる。ここで「父上」と叫べば、停戦交渉は血の海だ。いや、血の海に“笑顔”が浮く。
隆景は笑ってみせた。いや、笑っているつもりで口角を動かした。
「……噂に違わぬ、ご繁盛のようで」
お市は、うんうんと頷く。
「繁盛しておるぞ。関銭と倉庫と手数料で、銭が増える増える。
堺の商人が見たら、目が♡になるやつじゃ」
藤吉郎が、すかさず口を挟む。
「姫様、堺の商人は♡になる前に、手数料の計算で目が¥になります」
「うるさいの。銭は命じゃ。尾張の田んぼも銭がなければ痩せるのじゃ」
勝家が重々しく頷く。
「銭は血潮……」
「勝家、言い方が怖い! 血潮はやめろ血潮は!」
藤吉郎が即ツッコミし、客間に小さな笑いが起きる。
隆景は、その笑いの中で、窓の外を“見ていないふり”を続けた。
父は訓練に集中しており、こちらに気づいていない。瑠璃と徳は汗を拭い、励ましながら歩かせている。
(……狂犬が、父上を生かした? しかも、姫が世話を?)
頭の中で、矢が何本も飛び交う。
理解が追いつかない。だが、事実は窓の外にある。
景虎が、隆景をじっと見た。
女の景虎は、剣を抜かずに人を刺す目をしている。
「小早川。顔色が少し白い。船酔いか?」
「……海は慣れております」
「なら、腹でも痛いか?」
真田幸隆が穏やかに追撃する。
飯富虎昌は黙っている。黙っているのが一番怖い。
隆景は、ゆっくり息を吐いた。
ここで動揺を見せれば、情報として喰われる。
「率直に申します。毛利は消耗しております。尼子も動き、石見が危うい。
これ以上、双方が血を流すは得策ではございませぬ。――停戦を」
お市は、指先で机をとんとんと叩き、楽しそうに笑った。
「停戦、とな。言い方は綺麗じゃが、要は“時間がほしい”じゃろ?」
隆景は、否定しない。
「はい。時間が必要です。毛利だけでなく、この中国地方全体に」
元康が、すっと一歩前に出た。
「停戦は可能でございます。ただし、港の治安と関銭の取り決め、往来の規定、掟を明文化すべきかと。
曖昧は揉めます。揉めれば戦になります」
酒井忠次が横で頷く。
「……元康は、揉め事を嫌う顔して一番揉め事が得意ですな」
「忠次、褒めているのか貶しているのか、どっちだ」
元康が真顔で返し、また笑いが起きる。
隆景は、その“笑い”の質を観察していた。
狂犬の陣営は、笑いながら規則を作る。武威だけでなく、生活を作る。
だから港町が発展している。
お市が隆景に身を乗り出す。
「停戦するなら条件がある」
「お聞きいたします」
「一つ。民と商いに手を出すな。海路を荒らすな。
二つ。毛利の者が下関・門司の港に入るときは、名を記し、関銭を払え。
三つ――」
お市は、にやりと笑った。
「三つ目は、面倒じゃから後で決める」
「雑!」
藤吉郎が叫び、勝家が真面目に言う。
「しかし姫様らしい」
隆景は、喉の奥で笑いそうになった。
命のやり取りをしているはずなのに、空気が妙に現実的だ。
景虎が、静かに締める。
「小早川。停戦の使者として来たなら、誠意を見せよ。
毛利が何を守り、何を捨てるか。言葉にしろ」
隆景は、腹を括った。
「毛利は――国を守ります。民を守ります。
そして、今は“勝ち”を捨てます。
停戦は、敗北ではなく再編のための一手。そう理解いただきたい」
その瞬間、窓の外で松葉杖の老人が、わずかに足を滑らせた。
瑠璃と徳が慌てて支え、老人は悔しそうに歯を食いしばる。
隆景の胸が、痛む。
――父は、ここで生きている。
生きて、歩こうとしている。
だが、お市は気づいていないのか、気づいていても気にしていないのか、話を続けた。
「よい。停戦は――考えてやる」
「……感謝いたします」
隆景が頭を下げると、藤吉郎が朗らかに言った。
「いやあ、停戦って大事っすよね。殿、停戦の記念に狂犬堂の薬と化粧品――」
「売り込みをするな藤吉郎!」
景虎が叱り、藤吉郎はすぐに土下座した。
「すみません! 条件反射です!」
お市がニタニタする。
「商いの才は認めてやるが、今は外交じゃ。
……まあ、化粧品は持って帰れ。堺の商人が喜ぶぞ」
隆景は、丁重に礼を述べながら、最後まで窓の外を見ないふりを貫いた。
父に気づいたと言える空気ではない。
そして、心の中だけで呟く。
(父上……なぜ、そこに)
答えは出ない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
――狂犬は、毛利を滅ぼすだけの怪物ではない。
それが今日、隆景の目に焼きついた。
祐筆桃の日記(狂犬記)
西暦1556年3月30日(弘治二年・弥生末)。彦島城、客間。
小早川隆景さま来訪。
海から見た門司・下関の町並みに「発展してる……」と顔が本気で引きつっておられた。
そりゃそうだ。治安、灯台、倉庫、関銭。狂犬は戦より先に“仕組み”を作る。
交渉の席は真面目なのに、姫様は「三つ目は後で決める」と雑に笑う。
藤吉郎さまは停戦交渉で売り込みを始め、景虎さまに叱られて土下座。通常運転。
なお、客間の窓の外で、胡散臭いジジイが瑠璃姫さま徳姫さまに支えられリハビリ中。
隆景さま、気づいた。絶対気づいた。顔が石みたいになってた。
――でも言わない。
言ったら血の海だから。外交って、胃に悪い。




