第305話 鳴り止まぬ轟音と、向かう背中
西暦1556年3月23日(弘治二年・弥生下旬)
安芸国 吉田郡山城
春は来ているはずだった。
だが、吉田郡山城の空気は重く、冷えきっていた。
永興寺の敗報から二月あまり。
毛利家臣団の多くは失われ、元就の行方は依然知れず。
安芸の山々は静かであるのに、城中の心は荒れている。
その日、評定の間に一人の男が通された。
熊谷信直。
吉川元春の舅にあたる重臣である。
周防の農家に匿われ、傷の手当てを受けていたという。
衣は質素。
顔は痩せ、目は落ち窪み、かつての剛毅な面影は薄い。
毛利三兄弟――隆元、元春、隆景。
静かに座して、熊谷を見つめていた。
最初に口を開いたのは隆元であった。
「……よく、帰ってきてくれた」
低く、しかし温かい声。
「安芸は、お主を待っておった」
熊谷は、膝をついたまま震えた。
「……殿……」
言葉が続かぬ。
涙が、畳に落ちる。
「死にきれませんでした」
ぽつり、と。
「死ぬ覚悟は、しておりました。
しかし……体が動かぬ。足が震え、火縄銃の音が耳から離れぬ」
元春が、ゆっくりと熊谷の前に進み出た。
「話せ。ゆっくりでよい」
熊谷の手は、冷たい。
元春は、その手を握った。
熊谷の声は、掠れている。
「赤備えが……何度も、何度も突っ込んでくるのです。
退いても、退いても、また来る。
火縄銃は……鳴り止まぬ」
拳が震える。
「撃ち終わったと思えば、また撃つ。
撃ち終わったと思えば、また装填し、また撃つ。
地鳴りのような轟音。
耳が裂けるかと思いました」
隆景は、静かに目を伏せていた。
熊谷は続ける。
「狂犬の家臣団は……恐れを知らぬ。
長尾景虎の兵は、まるで一つの生き物のように動く。
火縄銃と砲の連携……あれは戦ではない。
狩りです」
その言葉に、評定の間の空気が張りつめる。
「そして――」
熊谷は、顔を上げた。
「狂犬は、笑っておりました」
隆元の目が、わずかに揺れる。
「笑いながら、自ら陣頭に立ち、強襲を繰り返す。
あれは……女ではない。
いや、女であるからこそ、恐ろしいのか……」
熊谷の呼吸が荒くなる。
「今でも……鳴るのです。
火縄銃の音が。
夜、目を閉じると、あの轟音が……」
元春は、手を強く握った。
「よい。もうよい」
低く、しかし確かな声。
隆元は、天井を見つめていた。
木目の走る梁。
変わらぬ城の姿。
だが、毛利は変わってしまった。
「……父上の行方は、依然不明」
隆元の声は静かだ。
「家臣は半ば失われ、兵は疲れ、国人衆は動揺している」
隆景が、顔を上げる。
「兄上」
はっきりとした声。
「彦島へ参ります」
隆元と元春が視線を向ける。
「停戦を申し出る」
「……狂犬にか」
元春が問う。
隆景は頷いた。
「いまは戦う時ではない。
尼子は南下し、石見は揺れ、銀山も危うい。
これ以上、消耗はできませぬ」
隆元は、しばし黙した。
「狂犬を、見てくると申すか」
「はい」
隆景の目は澄んでいる。
「敵を知らずして、国は守れませぬ。
狂犬が何を求めているのか。
何を作ろうとしているのか。
それを見極めねば」
元春が、低く笑う。
「無事に帰れる保証はあるまいぞ」
「それでも参ります」
隆景は迷わなかった。
「停戦は、負けではない。
再起のための時間です」
評定の間に、重い沈黙が落ちる。
やがて隆元が、ゆっくりと頷いた。
「行け」
短い言葉。
「毛利の名を背負い、軽率な真似はするな。
だが、恐れるな」
熊谷は、そのやり取りを聞きながら、震えを止めようとしていた。
狂犬の笑い声が、まだ耳に残る。
だが今、目の前にいるのは毛利の三兄弟。
若き当主、静かな軍略家、猛将。
安芸の春は、まだ終わっていない。
隆景は立ち上がった。
「狂犬を、見てきます」
その背中は、細いが、まっすぐだった。
祐筆桃の日記(狂犬記)
西暦1556年3月23日。安芸吉田郡山城にて。
毛利の熊谷信直、帰還。
戦の傷よりも、心の傷深しとの由。
赤備えと火縄銃の轟音、未だ耳を離れぬと震え語る。
狂犬、笑って戦うと伝わる。
敵の口から聞く狂犬像は、なかなかに痛快。
毛利隆景、彦島来訪を決意との噂。
停戦か、策か、あるいは観察か。
次は安芸の知将が、狂犬を見に来るらしい。
さて、姫様はどう笑うやら。




