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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第304話 麦は青く、狂犬は笑う

西暦1556年3月21日(弘治二年・弥生下旬)

長門国・彦島 狂犬堂商館彦島店(彦島城)

春の潮は、まだ冷たい。

関門海峡の流れは早く、だが彦島の空気はどこか柔らかい。

紫陽花作戦改の血の匂いも、今は潮と若麦の匂いに薄れていた。

狂犬お市様は、この日ばかりは竹刀を持っていなかった。

兵団訓練は利家と慶次に丸投げ。

火縄銃隊と新兵器・ファルコン砲隊の連携は、景虎姉上が鬼の形相で指導している。

「撃て、遅い!装填を急げ!砲手、角度が甘い!」

毘の旗の下、景虎姉上の声が飛ぶ。

新兵器――ファルコン砲。

南蛮式小型砲である。機動性を重視した野戦砲。

雑賀衆の火縄銃隊と交互射撃を行う訓練は、実戦を想定した凶悪な練度を求められていた。

その横で、狂犬お市様は畑を見ていた。

彦島と下関の農地開発は、順調だった。

麦、大麦、ライ麦、そして馬鈴薯。

芽を出し、青々と伸び、海風に揺れている。

「よい色じゃ」

お市様は、しゃがみ込み、土を握った。

「土が笑っておる」

松平元康が横で頭を下げる。

「姫様の御指示通り、畝を深く、排水溝を広げました。潮風対策に松の防風林も増やしました」

「うむ、ようやった」

両手握手。

元康は一瞬、また馬場の時の悪夢が蘇る。

(……感状はないよな?)

お市様はにこりと笑う。

「今日は走らせぬ。安心せよ」

元康の目に、うっすら涙が浮かぶ。

彦島の畑は、ただの食糧確保ではなかった。

漢方薬畑。

当帰、芍薬、甘草、黄連。

それらが整然と植えられている。

さらに、換金作物。

紅花、胡麻、藍。

「農民の銭儲けの基盤を作れ」

お市様は、はっきり言った。

「年貢は取るな。水田1割畑無税じゃ、わらわの直轄はその義にあらず、民に余力を持たせよ。

余力は銭を生む。銭は兵を生む。兵は民を守る」

元康は、静かに頷く。

「尾張でも、熱田周辺は商いが強うございましたな」

「堺を見よ。港が強ければ、町が強い。

農が強ければ、国が強い」

利家が遠くから声を張る。

「姫様ー!慶次が兵をいじめておりますー!」

「いじめてはおらぬ!鍛えておる!」

「同じだ!」

真理姫、瑠璃姫、徳姫も畑に来ていた。

瑠璃姫がしゃがみ込む。

「母上、この葉は虫に食われています」

「よく見ておるな。徳、薬草を煎じた水を撒け。

薬は戦にも使えるが、畑にも使える」

徳姫は真剣な顔で頷く。

真理姫は、麦を見つめながら呟く。

「五月には黄金色になりますか?」

「なる。

黄金色は戦の色ではない。豊穣の色じゃ」

お市様は、麦の穂を想像し、目を細める。

その時、慶次が走ってきた。

「姫様!兵が三人、転びました!」

「転んだか。起きろと言え」

「もう起きました!」

「よい。成長じゃ」

元康は、思わず苦笑した。

彦島は今、奇妙な場所だった。

戦の最前線でありながら、麦が揺れ、薬草が芽吹く。

火縄銃の音と、子供の笑い声が同時に響く。

お市様は立ち上がり、遠くの海を見た。

「戦は続く。

だが、戦だけでは国は持たぬ」

元康が問う。

「姫様は……何を作ろうとしておられるのですか」

お市様は、少し考えた。

「逃げ場のある国じゃ」

元康は、意味を噛みしめた。

「逃げ場……」

「負けた時、飢えた時、傷ついた時、帰れる場所。

それを作れぬ者は、天下など語るな」

その言葉は、軽いようで重かった。

景虎姉上が近づいてくる。

「砲隊、ようやく形になってきた。

だが兵はまだ甘い」

「甘いのは麦だけでよい」

二人は笑う。

景虎姉上は、畑を見渡した。

「戦と農を同時に進めるとは。

姉妹とは、似るものよ」

「月下の誓いは、戦だけではないからの」

潮風が吹く。

麦の葉が揺れる。

遠くで、また竹刀の音が響いた。

彦島は、戦場であり、畑であり、学校であり、診療所であり、そして――狂犬の国だった。

祐筆桃の日記(狂犬記)

西暦1556年3月21日。彦島の畑、青々と伸びる。

姫様、本日兵団訓練を丸投げし、畑視察。

松平殿、両手握手の刑を受けるも走らされず安堵。

麦は順調。薬草も芽吹く。

戦の最中に農を整えるとは、狂犬ながら理にかなう。

姫様曰く「逃げ場のある国を作る」とのこと。

戦よりも、そちらの方が恐ろしい野望かもしれぬ。

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