第303話 竹は折れても心は折るな
西暦1556年3月19日(弘治二年・弥生下旬)
長門国・彦島 狂犬堂商館彦島店(彦島城)
彦島の春は、潮と若竹の匂いが混じる。
狂犬お市様は、基本的に器用である。
めちゃくちゃ面倒くさがりで、すぐ丸投げするくせに、何かを「作る」となると異様に速い。
この日の朝。
「竹を切りに行くぞ」
そう言った瞬間、前田慶次は悟った。
これは誰かの運命が折れる日だ、と。
長尾景虎姉上は、馬上から静かに頷く。
「よい竹林が、灯台裏にあると聞いた。兵術は道具から始まる」
「兵術って……竹林から始まるもんでしたっけ?」
「始まる」
二人同時に言われ、慶次は黙った。
理不尽の二重奏である。
三人は竹林へ向かい、選び抜いた真っ直ぐな青竹を切り倒した。
お市様は、竹を三尺八寸に揃えて切る。
景虎姉上も寸分違わず揃える。
慶次は七尺に切り分ける。
「三尺八寸……」
慶次が呟く。
「よい長さじゃ。打ち合いにちょうどよい」
「人を鍛える長さ、ですな」
「人を折る長さではない」
「同じでは?」
返事はなかった。
竹を縦に割り、適度な幅に整え、四枚を合わせて縛る。
一振り、二振り、三振り。
竹刀が完成した。
景虎姉上と狂犬お市様は、ニヤニヤしている。
この顔のときは、だいたい誰かが泣く。
さらに慶次が七尺の竹を割り、同じように縛る。
しなる長物――竹槍。
「よし。これで突ける」
「誰をです?」
「兵を」
「兵を突くんですか?」
「心を突くのじゃ」
言い方の問題である。
お市様はさらに、三尺六寸の竹刀を三本作った。
「これは、真理、瑠璃、徳用じゃ」
慶次は小さくため息をついた。
「姫様……あの三人は医者志望では?」
「医者は手が速くなければならぬ。剣も速くなければならぬ。理にかなっておる」
どこが理なのか。
景虎姉上は、竹刀を振ってみせた。
風を切る音が、ひゅん、と響く。
「よい。軽い。実戦の前に、心を鍛えるには十分」
「……実戦の“前”という言い方が不穏すぎる」
慶次は兵団と旗本先手役の顔を思い浮かべた。
あの者たちは、やっと一里駆け足から立ち直ったばかりだ。
その頃。
訓練馬場では、元康と忠次が不安そうにこちらを見ていた。
「……慶次殿」
元康が、遠目に声をかける。
「なんでしょう」
「その竹……まさか」
慶次は、しばし沈黙した。
「……まさかです」
元康は、顔色を失った。
お市様は、完成した竹刀を掲げた。
「わらわと景虎姉上は、慈悲深い」
「慈悲?」
景虎姉上が、静かに続ける。
「真剣で打たぬだけ、慈悲である」
兵団の顔が一斉に青ざめた。
「真剣の代わりが竹というだけで、慈悲ですか!?」
藤吉郎が叫ぶ。
「尾張では、それを優しさと言う」
「言わないです!」
利家が即座に否定した。
お市様は、くるりと回り、兵たちを見渡した。
「武は殺すためではない。守るためじゃ。
守るためには、まず打たれても折れぬ心を作る」
景虎姉上は、穏やかな声で補う。
「戦場で折れるより、今折れよ」
「今も折りたくないです!!」
忠次が心の声を漏らす。
真理姫、瑠璃姫、徳姫が駆けてきた。
「母上、それは……」
「竹刀じゃ」
「わかります!」
瑠璃姫は目を輝かせた。
「振ってもよろしいですか?」
徳姫も小さく頷く。
「母上みたいに、強くなりたいです」
お市様は、目を細めた。
「よい子じゃ。強くなるのは悪ではない」
そして小さく、付け加える。
「逃げ足も、忘れるな」
勝頼が竹槍を見て呟く。
「……あれ、痛そうだな」
慶次が肩を叩く。
「痛いぞ。竹でも痛い」
「武田では、まず騎馬からだが」
「彦島では、まず理不尽からだ」
誰も否定できない。
やがて、第一声が響いた。
「構え!」
竹がぶつかる音が、潮風に乗って響く。
ぱしん、ぱしん。
真剣ではない。
だが、痛い。
痛みは現実だ。
元康は打たれながらも、歯を食いしばる。
(姫様は……本気だ。
だが、これは……生きるための本気だ)
景虎姉上とお市様は、打ち合いながら笑っている。
「よい。足が遅い」
「間合いが甘い」
「次は突き」
兵たちは悲鳴を上げながらも、竹刀を握り直した。
彦島の訓練馬場は、今日も騒がしい。
竹はしなる。
心は折れる寸前。
だが、折らせぬために打つ。
理不尽を通り越し、狂気を経て、そこにあるのは一つ。
生き残るための準備。
潮風の中、竹の音が鳴り続けた。
祐筆桃の日記(狂犬記)
西暦1556年3月19日。彦島にて竹刀と竹槍完成。
姫様と景虎姉上、朝から竹を切り出し、寸分違わぬ手際で竹刀を量産。
兵団は顔色を失う。
「慈悲深い」との御言葉あり。
理由は「真剣で打たぬから」。
本日より、彦島に竹の嵐が吹く。
兵は折れず、竹が折れることを祈るばかり。




