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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第302話 感状一枚、地獄一里

西暦1556年3月17日(だいたい弘治二年・弥生下旬)

長門国・彦島 狂犬堂商館彦島店(彦島城)裏 訓練馬場

彦島の朝は、潮の匂いが濃い。

福浦の港灯台から吹く風は冷たいのに、商館の裏手――訓練馬場だけは、妙に熱がこもっていた。

なぜなら、完成したからだ。

彦島訓練馬場。

狂犬堂商館の裏から福浦港灯台までを回り、また商館へ戻る――いびつな円形の走路。

円形と言っても、地形に合わせて曲がりくねり、潮溜まりもあれば、砂地もあれば、少しだけ坂もある。

「戦場は平らじゃない」をそのまま形にした、狂犬らしい趣味の悪さである。

その完成初日。

「……おおおおお! できたのう! 元康!!」

狂犬お市様は、全身で喜んだ。

喜び方が尋常ではない。

両手で松平元康の両手を掴み、握る。

握る。

握り続ける。

手がもげるかと思うほど握る。

「い、姫様……! 骨が……!」

「骨は鍛えればよいっ!」

意味がわからぬ。

そして次の瞬間、抱きしめた。

元康は感動で目が潤んだ。

……というより、抱きしめられた衝撃で息が潤んだ。

「よくやった。仕事が早い。丁寧。根性。最高じゃ」

お市様はさらりと言い、ささっと机もないのに膝の上で紙を広げ、見事な達筆で感状を書いた。

朱印を、どん。

「ほれ。これを持て。誇れ」

元康は感状を受け取り、首をかしげた。

「……姫様。馬場を作っただけで、なぜ感状なのでしょう。首も取っておりませぬが」

「首を取るより大事な首がある」

「首が……ある?」

「逃げ遅れた首じゃ」

元康は固まった。

隣にいた木下藤吉郎秀吉と前田利家が、急に顔面蒼白になったのは、その言葉の意味を知っていたからだ。

「あ、あの……姫様。今日は完成祝いということで……」

藤吉郎が、恐る恐る笑顔を貼りつける。

「祝いじゃ。祝いには、走る」

「祝いって、走るもんでしたっけ!?」

「尾張ではそうじゃ」

嘘である。

利家は、すでに半泣きだった。

「また始まる」と目が言っている。

さらに真理姫が「はっ」と気づき、顔色を失った。

勝頼だけが、なぜかきょとんとしている。

「……なんで馬場如きで感状なんだ? 俺はわからん」

真理姫は勝頼の袖を掴み、声を落とす。

「しーっ! 勝頼兄上、声が大きいです!」

瑠璃姫と徳姫も、同時に小さく首を振った。

「母上に聞かれたら……危険です」 「“感状=地獄の合図”です……!」

「は? なんだそれ」

「……最古参だけが知るやつです」

勝頼の理解は追いつかない。

だが、空気はもう追いついている。

お市様は、満面の笑みで叫んだ。

「馬引けーーッ!!」

馬番が一斉に動く。

馬は関係ない。

人間が引かれる。

「元康! 忠次! 旗本先手役! 一番最初はお主らじゃ!」

「承知……ッ!」

元康は返事をしながら、感状を握りしめた。

握りしめた手が震えている。

感動ではない。

「藤吉郎、利家!」

「はいっ!?」 「はい……」

「最古参は教えてやれ。こやつらは初日じゃ。優しくな」

優しいという言葉を、ここで使うのは罪である。

お市様は、すうっと息を吸い――朗らかに言った。

「一里、駆け足!」

「出たーーーっ!!」藤吉郎が叫んだ。

「来たぁ……」利家が膝を折りかけた。

「逃げ足、鍛えるぞ!」

「逃げ足ってなんですか姫様!! 戦の足じゃなくて!?」勝頼がついに声を上げる。

お市様は、勝頼を見て目を細めた。

「戦で生きる足じゃ。勝頼、そなたは火縄銃の名手になりたいのだろう?」

「なりたいけど!」

「なら走れ。銃は逃げる者を救わぬ。足だけが救う」

理屈だけは正しいのが、余計に質が悪い。

真理姫は青い顔で、瑠璃姫と徳姫の手を握った。

「……今日、母上、機嫌が良すぎます」 「機嫌が良いと、走らされますね……」 「機嫌が悪いと、もっと走らされます……」

地獄に差がない。

そして、走り出した。

訓練馬場のいびつな円形を、潮風の中、砂地を踏み、坂を上り、灯台の影を横切って。

駆け足が、一里。

息が切れても止まれない。

止まれば、狂犬が笑う。

お市様は先頭に立ち、涼しい顔で走っていた。

医者のくせに、患者を増やす速度で走る。

元康は、歯を食いしばりながらも、心のどこかで思ってしまった。

(……馬場を作ってよかった。姫様が喜んだ。

……だが、感状はいらんかったのでは?)

後ろで藤吉郎が叫ぶ。

「元康殿ーー!! それが感状の意味だーー!!」

利家が泣き笑いで続けた。

「おめでとうって言われたら、終わりだと思えーー!!」

勝頼はなおも理解できず、走りながら吠えた。

「意味がわからん!! 武田にこんな文化はない!!」

お市様は振り返り、ニタニタ笑った。

「今日から、ある」

理不尽である。

だが、戦国とはそもそも理不尽でできている。

そして彦島の潮は、今日も早い。

祐筆桃の日記(狂犬記)

西暦1556年3月17日(弘治二年・弥生下旬)。彦島、訓練馬場完成。

元康殿、仕事が早く丁寧で、姫様が大喜び。

両手握手ののち抱擁。さらに達筆の感状と朱印。

普通なら美談。だが狂犬は違う。

感状=祝儀=走る、という狂犬理論が発動。

「逃げ足を鍛えるぞ!」で一里の駆け足開始。

藤吉郎様・利家様が最古参の顔で泣きそうになり、真理姫様・瑠璃姫様・徳姫様は無言で青ざめ、勝頼様だけが最後まで意味不明のまま走っていた。

教訓。

彦島で“褒められる”ことは、基本的に危険である。

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