第301話 潮風に滲む手紙
西暦1556年3月15日(だいたい弘治二年・弥生中旬)
駿河国・駿府 武田商館
駿府の港は、春の匂いがした。
潮はまだ冷たいのに、風だけが少しだけ柔らかい。
その風を、武田晴信と三条の方は並んで受けていた。
二人の視線の先――海面を割って入ってきたのは、狂犬堂の五隻目の船。
「……来おったな」
晴信が口の端だけで笑う。
船体は南蛮風。帆は大きく、肋材ががっしりしている。
見慣れぬ形の船――カラベル。
「また、とんでもないものを寄越しましたね、狂犬殿は」
三条の方が、口では呆れたように言いながら、目は真剣だった。
家臣たちが次々に乗り込み、甲板、舵、帆綱、積荷――細かいところまで見て回る。
武田の商館は今、狂犬堂の「物」が入るたび、少しずつ国が強くなる。
塩、鉄、油、薬、織物、火縄銃の部材。
戦国の勝ちは、槍だけじゃない。
港と倉と銭と――そして情報だ。
「殿、船脚は上々です。回頭も軽い。
沿岸の荒波でも、いけますな」
家臣の一人が報告すると、晴信は「よし」と短く返す。
その声の固さの裏に、安堵がある。
だが今日、二人がここに立った理由は、船だけではなかった。
三条の方の袖には、折りたたまれた書状がいくつもある。
彦島から――真理姫、義信、勝頼。
そして飯富虎昌、真田幸隆からの、永興寺の戦いの詳細。
三条の方は、真理の手紙を胸に当てたまま、なかなか開けない。
開けたら、涙が止まらなくなると分かっているからだ。
「……母上」
晴信が、横目で見た。
三条の方は小さく頷いて、ようやく封を切る。
紙の匂い。
筆圧の癖。
真理が泣きながら書いたのが、文字の端でわかる。
三条の方の目が、一行目で揺れた。
「……生きてる……」
声が掠れた。
「瑠璃姫……徳姫……」
姉の忘れ形見。
あの日、大寧寺で燃え落ちたはずの命が――生きている。
三条の方の頬を、涙がつうっと落ちた。
止めようとしても止まらない。
手紙が濡れるのが嫌で、慌てて指で拭う。
でもまた落ちる。
「狂犬が……大切に育てると……医者にすると……」
読めば読むほど、胸が苦しくなる。
嬉しいのに、痛い。
生きていることがありがたいのに、そこへ辿りつくまでの地獄を想像してしまう。
晴信は、黙って海を見た。
駿河の潮風が、目にしみた。
「……狂犬め」
ぼそりと漏れる声は、怒りではない。
噛みしめるような、熱だ。
「永興寺の戦の手紙もある」
晴信は家臣から書状を受け取り、広げた。
飯富虎昌。真田幸隆。
淡々と記された戦果の行――その一つ一つが、重い。
「敵将討ち取り数……勝山城占拠……四王司城占拠……」
三条の方が震える声で言う。
「皆……生きているのでしょうか」
「生きて帰らせる」
晴信は即答した。
その言葉は、武田の当主としてではなく――父としての言葉だった。
そこへ、家臣が半分冗談みたいな顔で口を挟む。
「しかし殿、狂犬殿の配下は……強いだけではなく、変でございますな。
姫君を医者にするとは。寺子屋まで作ったとか」
晴信が、じろりと睨む。
「変で悪いか。
変でなければ、この世は変わらぬ」
家臣が「はっ」と引っ込む。
三条の方は涙を拭いながら、ふっと笑ってしまった。
「殿……狂犬殿に、似てきましたね」
「似ておらぬ」
晴信は即答し、次の瞬間、ほんの少し口元が緩む。
「……いや、似ておるのかもしれぬな。
守るものがあるとな」
三条の方は手紙を畳み、胸に抱いた。
「瑠璃も徳も……生きている。
その事実だけで、春が来ます」
港には、南蛮船の影。
堺筋の商人の噂。
尾張の品の目利き。
そして、戦国の潮の匂い。
戦は続く。
だが――この瞬間だけは、駿府に春があった。
晴信は、海へ向かって呟く。
「生きよ。
皆、生きて帰れ」
潮風が、強く吹いた。
それは冷たいのに、不思議と温かかった。
祐筆桃の日記(狂犬記)
西暦1556年3月15日(弘治二年・弥生中旬)。駿府武田商館。
狂犬堂より五隻目のカラベル到着。家臣団、検分で港が騒がしい。
船は良い。だが船以上に「手紙」が重い。
真理姫の書状にて、瑠璃姫・徳姫の生存を三条の方が知り、涙が止まらず。
晴信公は永興寺戦の戦果を読み、声少なくして胸を熱くしていた。
潮風が目にしみたのは塩のせいか、感情のせいか。
戦の報は数で書けるが、命の重さは数では書けぬ。
狂犬は討ち、奪い、そして育てる。相変わらず意味がわからぬ。
だが、わからぬからこそ、戦国が動いている。




