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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第299話 胡散臭いジジイ、心が折れる

西暦1556年3月10日(だいたい弘治二年・弥生下旬)

関門海峡・彦島 狂犬堂彦島商館(彦島城)

潮の匂いが、朝の空気に混じる。

彦島の空はまだ冷たく、陽は薄いのに、海だけが妙に眩しい。

胡散臭いジジイは今日も松葉杖をつき、歩行訓練をしていた。

背を丸めて、足を出して、痛みに歯を食い縛って、また足を出す。

「ジジイ様、右です。ほら、いけます」

瑠璃姫が、隣で柔らかく声をかける。

徳姫は反対側から、転びそうな身体をそっと支える。

「……わしは、一人で歩ける」

つい虚勢が出る。

だが、二人は気にしない。

「はい、でも、転んだら母上が縫います」

「縫われたくなければ、私たちに掴まってください」

「……脅しが上手くなったの」

「母上直伝です」

徳姫が胸を張り、瑠璃姫がくすりと笑う。

ジジイは、胸の奥がちくりとした。

――あの狂犬の笑い方と、同じだ。

歩く。

一歩。二歩。三歩。

たったそれだけのことが、かつての自分には「当たり前」だった。

なのに今は、姫二人の手がなければ、まともに厠にも行けぬ。

「……急ぎ過ぎるな、ジジイ様。傷が開きます」

瑠璃姫は真顔になって言う。

徳姫も頷く。

「良くなってから、帰ればいいのです」

帰る――その言葉に、ジジイの指が松葉杖を強く握った。

帰りたい。

帰れるのか。

帰って、何をする。

その「帰る」という音の中に、答えがない。

「ジジイ様、聞いてください」

徳姫が突然、にこにこしながら話を始めた。

「私、母上みたいに医者になりたいんです」

「……医者」

「はい。刀より薬草の方が好きです。

でも母上は、薬草も刀も同じ手で扱います。すごいです」

瑠璃姫も、照れくさそうに言う。

「私もです。寺小屋も好きです。字を覚えると、怖くなくなるので」

怖くなくなる。

その言葉は、戦国のど真ん中では、重い。

「……そなたらの両親は、どうした」

問うと、瑠璃姫の笑顔が一瞬だけ薄くなる。

「大寧寺で……亡くなりました」

徳姫は、瑠璃の背をぽん、と叩いて明るい声を出す。

「でも、私たち生きてます。

必死に逃げました。泣きながら走りました。

藤吉郎様が助けてくれました。藤吉郎様は英雄です」

「……英雄、か」

ジジイの口から、かすれた声が出た。

英雄。

謀将。

名将。

そんな札は、結局「語られる側」の都合で貼られるだけだ。

瑠璃姫は、ジジイの表情を覗き込む。

「ジジイ様、難しい顔です。痛いですか?」

「……痛くは、ない」

嘘だった。

太腿も痛む。だがそれ以上に、胸が痛い。

二人の話を聞くほどに、思い出が浮き上がる。

忘れたふりをしていたものが、潮のように押し寄せる。

――杉の大方。

孤児の自分を、大切に育ててくれた養母。

領地を奪われ、困窮し、それでもなお、己を人として扱った女。

(わしは、あの方に何を返せた)

(返したつもりになって、結局――)

胸が熱くなる。

涙腺が、緩むのがわかる。

ジジイは顔を背けた。

涙など見せられるか。

「ジジイ様、潮、きれいですね」

徳姫が何気なく言う。

瑠璃姫も頷いた。

「彦島の潮は早いけれど、嫌いじゃないです」

潮。

早い。

戦も同じだ。流れ出すと止まらぬ。

ジジイは、息を吐く。

自分は家臣を守るために謀を尽くした。

家臣の家族を守るために戦を選んだ。

毛利を守るために、息子たちを守るために、孫を守るために――

情報を集め、分析し、策を組み、

負けぬ形を作り、勝つ粘りを重ねた。

それでも、敗れた。

「……わしは、何が出来なかったのか」

ぽつり、と漏れる。

瑠璃姫が首を傾げる。

「出来なかったこと?」

徳姫は真面目な顔をする。

「でも、ジジイ様、生きてます」

「……それが、答えにならん」

「なります」

徳姫はきっぱり言った。

「生きてる人は、やり直せます。

母上はいつも言います。“死んだら反省もできぬ”って」

その言葉が、胸に刺さる。

(こやつは、わしと同じか?)

(いや、違う)

狂犬お市は、自分のためには戦っていない。

目の前の者のために、当たり前のように手を差し伸べる。

それは謀ではない。

計算でもない。

むしろ、計算しないことを選んでいる。

――誰のために。

織田のためか。

違う。もっと近い。

目の前の、弱い者。

泣く者。

逃げる者。

生きたい者。

それが「義」なのか。

義とは、掲げる旗ではなく、手を汚して抱えるものなのか。

ジジイの胸が、さらに熱くなる。

そのとき。

瑠璃姫が、徳姫へ、まるで世間話のように言った。

「そういえば、父上様が生前、よく母上に言ってました」

「なに?」

「毛利の隆元様は、よくできた息子だって。

養子に欲しいくらいだって」

徳姫は目を丸くした。

「へえ、父上、そんなこと言ってたんだ」

瑠璃姫は懐かしそうに笑う。

「それでね、家格が合わないから無理だけど、

もし瑠璃が嫁にいけたら――って、小さい頃よく」

そこで、ジジイの中で何かが、音を立てて壊れた。

毛利。

隆元。

養子。

嫁。

――大内義隆。

――瑠璃姫。

――隆元。

頭が真っ白になる。

瑠璃姫は、ただ父の言葉を懐かしんでいただけだ。

徳姫も、ただ笑っていただけだ。

だが、ジジイの中では、違う。

奪った。

壊した。

焼いた。

謀を尽くして、誰かの人生を切り刻んだ。

守るためと言いながら、

他者の家族を、姫の未来を、平然と踏みにじった。

そして今、

その姫が、敵の自分を支え、

「ジジイ様」と呼び、

にこにこ笑っている。

「……やめろ」

声が震えた。

瑠璃姫が驚いてジジイを見る。

「ジジイ様?」

徳姫も不安そうに覗き込む。

「どうしました? 痛いですか?」

痛い。

痛いに決まっている。

だが、痛いのは傷ではない。

ジジイは、唇を噛んだ。

喉が詰まり、息が苦しい。

「……わしは」

言いかけて、言葉が落ちる。

二人の手が、温かい。

その温かさが、余計に残酷だった。

(わしは、何を守ってきた)

(守ったつもりで、壊してきただけではないのか)

瑠璃姫が、そっと言った。

「ジジイ様、座りましょう。母上を呼びます」

徳姫も頷く。

「はい。母上なら、うまくしてくれます」

――うまくしてくれます。

その言葉に、ジジイは笑いそうになった。

狂犬が「うまく」するのは、手術だけではない。

人の心まで、針と糸で縫い合わせてしまう。

ジジイは、ついに、息を吐いた。

「……すまぬ」

瑠璃姫と徳姫が、同時に目を見開いた。

「いま、なんと?」

「すまぬと……言うた」

声が掠れた。

瑠璃姫は、泣きそうな顔で笑った。

「三度目です」

徳姫は嬉しそうに頷いた。

「今日も、良い日です」

潮は早い。

だが、心が折れるのは、もっと早かった。

そして折れた心の隙間から、

初めて“義”というものが、入り込んできた気がした。

祐筆桃の日記(狂犬記)

西暦1556年3月10日(だいたい弘治二年・弥生下旬)。彦島。

胡散臭いジジイ、松葉杖歩行訓練に熱心。瑠璃姫・徳姫が終始付き添い、雑談しながら支える。

二人は医者志望。両親は大寧寺で亡くし、逃走中に藤吉郎殿に保護された経緯を語る。

ジジイ、瑠璃姫の「父上が隆元を養子に欲しがった」話を聞いた瞬間、顔色が変わる。

明らかに心が折れた音がした。

謝罪の言葉(本日三度目)あり。

結論:

潮は早いが、狂犬堂の“世話”はもっと早い。

敵を敵のままにしておかない速度で、人が変わっていく。

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