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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第298話 厠の朝に、義を知る

西暦1556年3月9日(だいたい弘治二年・弥生下旬)

関門海峡・彦島 狂犬堂彦島商館(通称・彦島城)

年寄りの朝は早い。

それは戦国の大名であろうと、胡散臭い農民風のジジイであろうと、変わらぬらしい。

夜明け前。海峡の潮がごう、と低く鳴る。

彦島の朝は、潮の匂いとともに始まる。

胡散臭いジジイ――名を問われれば足軽としか答えぬ男は、目を覚ました。

腹は落ち着いてきた。太腿の傷も、焼きごての跡は痛むが、命を持っていかれるほどではない。

だが。

「……厠」

声に出してから、苦笑した。

戦場では万を指揮した男が、今は厠に行くにも一苦労である。

松葉杖を手に、ゆっくりと身を起こす。

この数日、自分の排泄の処理まで、あの狂犬と姫たちがやった。

――理解ができぬ。

大名の娘が。

それも、戦で毛利本陣を焼き払ったあの女が。

何故、血に塗れた敵将の世話をする。

「普通は、下女にやらせるものではないのか……」

自尊心。屈辱。困惑。

それらが、ぐちゃぐちゃに絡み合う。

松葉杖をつき、廊下へ出る。

板の軋む音が、妙に大きく聞こえた。

と、その背後から。

「ジジイ様、起きとる!」

ぱたぱた、と軽い足音。

振り向けば、瑠璃姫と徳姫である。

額に汗を光らせ、頬は紅潮し、息は整っている。

「……何をしておったのじゃ。寝汗か?」

ジジイは、できるだけ平静を装って問う。

瑠璃姫が胸を張る。

「狂犬母上と二里、走ってきました」

「に、二里?」

徳姫が得意げに続ける。

「逃げ足を鍛えよ、とのことです。戦は勝つか、逃げ切るか、どちらかじゃと」

「……逃げ足を鍛える姫とは、初めて見た」

「母上は毎日走ります。彦島でも、蝦夷でも、熱田でも。

医者は体が資本じゃと」

徳姫はにこにこしている。

汗だくで、息も少し荒いのに、誇らしげだ。

ジジイは、しばし黙った。

この姫たちは、戦の話を笑顔でする。

だが、笑顔の奥に、逃げる覚悟も持っている。

「……厠かの?」

瑠璃姫が、自然に横に並ぶ。

「はい。お手伝いします」

「い、いや、わしは一人で――」

徳姫がさらりと遮る。

「無理なさらぬことです。転べば、また縫いますよ?」

「……縫うな」

思わず言い返してしまう。

二人はくすくす笑った。

厠までの短い廊下が、妙に長い。

松葉杖の音と、姫たちの足音が重なる。

「……すまぬな、いつも」

ぽつり、と。

自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。

瑠璃姫と徳姫は、足を止めた。

「いま、なんと?」

「すまぬ、と言うた」

徳姫の目が大きくなる。

「初めて言いましたね」

「わしは……敵であろう?」

瑠璃姫は首を傾げる。

「患者です」

「……患者」

「狂犬母上は申します。

“敵も味方も、腹が痛けりゃ同じ人間じゃ”と」

徳姫が続ける。

「ジジイ様、戦は好きですか?」

唐突な問いだった。

「……好きではない」

「でも、戦の話になると、目が動きます」

ぎくり、とする。

この姫たちは、よく見ている。

「……昔の話じゃ」

「昔でも、今でも。

母上は言います。戦は道具。

守りたいものがあるから使う、と」

守りたいもの。

ジジイは、宗像でも、安芸でも、周防でもない遠い記憶を思い出す。

吉田郡山。

山陰山陽の狭間。

家族。

家を守るための謀。

「……守るため、か」

瑠璃姫は、厠の戸を開けながら言う。

「ジジイ様も、守りたかったのでは?」

徳姫が頷く。

「だから、まだ生きておるのでしょう」

ジジイは、言葉を失った。

自分は、ただ生き延びるために謀を重ねた。

そう思っていた。

だが、守りたかったのは――。

「……おぬしたち、年はいくつじゃ」

「十一です」

「八です」

「……幼いな」

「幼くとも、走れます」

「幼くとも、縫えます」

「幼いから、怒られます」

三つ目で、二人は顔を見合わせて笑った。

ジジイも、つられて笑いそうになる。

厠から戻る途中、潮の音が強くなった。

朝日が、海峡に差し込む。

遠くで、火縄銃の乾いた音がした。

「母上が、また撃っておりますね」

「今日は鳥、三羽目だそうです」

「……医者が鳥を撃ち落とすとは」

「母上は、撃って縫って治します」

「治して縫って撃ちます」

「どちらが先かは、日によります」

ジジイは、思わず吹き出した。

「狂犬、か」

「はい。狂犬です」

だが、その声は誇らしかった。

廊下の向こうに、狂犬お市が立っていた。

腕を組み、にやにやしている。

「ほう。ジジイ、笑うではないか。

わらわの姫が気に入ったか?」

「……うるさい」

「ほほ。声に力が戻ったの。

瑠璃、徳、よくやった」

「はい、母上」

二人は揃って礼をする。

ジジイは、ふと問いかけた。

「何故じゃ。何故、敵を助ける」

お市は、あっさり答えた。

「面白いからじゃ」

「……」

「それと、医者は命を選ばん。

選ぶときは、戦場で選ぶ」

にやり、と笑う。

「そなたが死ねば、毛利では“殉死の武士”になる。

生きておれば、“恥を知る武士”になる。

どちらが世のためか、考えよ」

ジジイは、言葉を失った。

恥を知る武士。

――まだ、役に立てるということか。

「……すまぬな」

再び、言った。

今度は、はっきりと。

瑠璃姫と徳姫は、顔を見合わせて満面の笑みを浮かべた。

「二度目ですね」

「今日は良い日です」

潮は早い。

だが、朝は確かに、少しだけ穏やかだった。

祐筆桃の日記(狂犬記)

西暦1556年3月9日(だいたい弘治二年・弥生下旬)。彦島。

胡散臭いジジイ、早朝に厠へ。松葉杖で歩行可能。傷は順調に回復。

瑠璃姫・徳姫、狂犬母上と二里走り込みの後、介助に当たる。汗だくでも笑顔。

ジジイ、初めて「すまぬ」と口にす。

敵武士であろうと、排泄の世話をし、傷を縫い、薬を飲ませる狂犬と姫たちの所作に、ついに折れた模様。

戦は人を壊すが、世話は人を戻す。

今日は、潮よりも早く、心が少し動いた日であった。

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