第297話 桜の窓辺、姫はまだ戦場にいる
西暦1556年3月9日(だいたい:弘治二年・弥生下旬/早春)
狂犬堂の暖簾分け――福屋博多店。
表の看板は「福屋」。けれど、博多の町人は最近こう囁く。
「服部半蔵の店たい。……あの半蔵が、商売ばしよるらしか」
噂は尾ひれがつく。
「半蔵が値切った客を背負い投げした」とか、
「品物が良すぎて、逆に怖い」とか。
だいたい嘘だ。だが、半分は本当だった。
二階。窓辺。
宗像菊姫は、薄い陽の光を受けながら、外を見ていた。
博多の三月は早い。まだ冷えるのに、桜がほころび始める。
通りを歩く人々の息は白いのに、枝先だけが春を先取りしている。
――生きている。
そう思うたび、胸の奥が少しだけ痛んだ。
傷は残った。
脇腹に走る縫い跡。腕の斬り傷。鏡を見れば、あの日が戻ってくる。
けれど血は戻り、歩ける。食べられる。眠れる。
「生活に支障がない」――その言葉が、逆に怖かった。
支障がないなら、宗像へ戻らねばならないのではないか、と。
階段が軋んだ。
軽い足音。次いで、遠慮のない声。
「菊姫さまー! 起きとる? 今日、桜、めっちゃええよ!」
服部せつな。伊賀のくのいち。十四歳。
明るい声のくせに、目だけはいつも周りを見ている。
戦場の目だ。
「起きている。……せつな殿、声が大きい」
「大丈夫! ここ福屋やけん、みんな福が逃げん程度には騒いでよか!」
よく分からない理屈で押し切るのも、伊賀流なのだろうか。
せつなは窓辺に来て、菊姫の視線の先――桜の枝を見上げた。
「博多はええよね。人が多い。目立たん。匂いも多い。屋台の匂い最高」
「……匂いの話をするな。食べたくなる」
「ほら、元気出てきた。よし」
せつなは、わざとらしく頷いてから、急に声を落とした。
「で、菊姫さま。彦島、行く?」
菊姫の指先が、窓枠を握った。
桜の花びらが一枚、風で舞う。
その軽さが、胸に刺さる。
「……行かなければ、宗像の民が助からぬ」
言った瞬間、自分でも笑いそうになった。
助からぬ、などと。
一人の姫が動いたところで、何が変わる。
――それでも、言わずにいられなかった。
せつなは肩をすくめた。
「うん。そう言うと思った。菊姫さま、優しすぎるもん」
「優しいのではない。……責がある」
「責って言葉、好きやねえ。姫さまっぽい」
せつなは茶目っ気で笑う。けれど、次の言葉は鋭かった。
「でもさ。今の九州、火ぃついとるよ」
「……聞いている」
せつなは指を折って数え始めた。
「大友。肥前の龍造寺、筑後の蒲池、筑前の秋月、立花、高橋――あっちこっちが離反しとる。
狂犬堂の流言飛語? まあ、そんなんもある。けどね、根っこは“もともと不満だらけ”ってやつ」
「大友の、大内の扱いが悪い……」
「そう。大内政策とか言うやつ。あと毛利に弱腰。そこに来て、狂犬が毛利元就を撃破。……火がついた」
せつなは、言い切ってから少しだけ肩を落とした。
「怖いよね。噂が、国を動かす」
菊姫は目を伏せた。
永興寺。火縄銃の轟音。赤備え。旗。
狂犬お市――その名前が、九州の海を越えて燃えている。
「……噂で民が救われるなら、使うべきだ」
「うん。お市さまなら、そう言う。たぶんニタニタしながら」
そこで、階下から落ち着いた足音がした。
人を踏み込ませない、静かな圧がある。
服部半蔵だった。
「菊姫さま、薬湯を用意しました。飲めますか」
声は丁寧。だが、どこか命令口調に聞こえるのは、育ちのせいだろう。
店主であり、護衛であり、影である男。
菊姫は小さく頷いた。
「飲む。……世話になっている」
半蔵は湯呑を差し出し、ちらりと菊姫の顔色を見た。
その視線は医者のように正確で、武士のように冷たい。
「顔色は良い。傷も落ち着いている。……しかし、心が先に走る」
菊姫は言葉に詰まった。
半蔵は責めるでもなく、淡々と続けた。
「宗像へ戻れば、また狙われます。暗殺は、二度目が一番易い」
せつなが横から口を挟む。
「半蔵さん、それ言い方! でも正しい!」
半蔵は眉一つ動かさない。
「正しいことは、言わねばなりません」
菊姫は湯呑を両手で包み、温かさを感じた。
生きている。温かい。
だからこそ、逃げているような気がした。
「……三年、付き合ってくれたな。半蔵殿」
半蔵は一瞬だけ、目を細めた。
それが“感情”なのか、“確認”なのか、菊姫には分からない。
「菊姫さまの優しさは、武器です。だから守る。……ただし、無謀は守れません」
「無謀ではない。宗像を――」
「守るなら、戦場ではなく、まず“旗”を握るべきです」
菊姫は息を呑んだ。
半蔵が、商いの店の二階で“旗”と言った。
戦国の言葉だ。逃げ場のない言葉だ。
せつなが、そこで明るく割って入る。
「ほらー! 半蔵さん、結局ついてく気満々やん!」
「せつな、口が軽い」
「軽いけど速いよ? 伊賀やけん!」
菊姫は、思わず笑ってしまった。
笑った瞬間、涙が出そうになった。
笑えるのに、宗像の民は笑えているのか。
窓の外で、桜がまた一枚舞った。
「……彦島へ行く」
菊姫は言った。声は震えなかった。
震えていたのは、心の方だった。
「ただし、勝手に死なぬ。死ねば民は二度殺される」
せつなが力強く頷いた。
「うん! それそれ! 菊姫さま、やっと狂犬っぽくなってきた!」
「狂犬にはならぬ」
「でもね、狂犬は“助ける時、速い”よ。菊姫さまも速くしよ」
半蔵は、静かに一礼した。
「船は手配します。博多から関門へ。潮を読むのは、私がやります」
菊姫は湯呑を置いた。
桜を見た。
そして、自分の手を見た。
この手で、何ができるか。
分からない。
分からないままでも、行かなければならない。
春は来る。
来てしまう。
ならば、宗像にも春を運ぶしかない。
祐筆桃の日記(狂犬記)
西暦1556年3月9日(だいたい弘治二年・弥生下旬)。博多、福屋博多店(二階)。
宗像菊姫さま、傷は落ち着き、歩けるほどに回復。窓から桜を眺めておられた。博多の春は早く、花がほころぶぶんだけ、姫の胸は痛むように見える。
服部せつな(伊賀)が、永興寺の戦と周防長門の情勢、毛利撃破の噂が九州へ火をつけたことを説明。大友方の国衆の離反が相次ぎ、狂犬堂の流言も混じり、もともとの不満が一気に噴き出した形。戦は刀だけで起きない。噂と金と腹で起きる。
菊姫さまは「宗像の民を救うため彦島へ行く」と決意。服部半蔵殿は止めるのではなく、危険を言い切った上で“守る段取り”へ移った。口数は少ないが、あの方は不思議と人を安心させる。
桜が舞う。なのに、胸がざわつく。春は祝うものなのに、戦国では春さえ出陣の合図に聞こえる。




