第296話 軍神、潮を制す――関門のクエ合戦
西暦1556年3月7日(だいたい:弘治二年・弥生中旬/早春)
関門海峡の潮は早い。
それは昔から変わらぬ。源平の頃より、潮を読めぬ者は溺れ、読める者は勝つ。
まだ日の昇らぬ薄明かりの中、彦島田の首(関門の潮目が激しくぶつかる岩場)に、二騎の影があった。
長尾景虎――軍神。
前田慶次――傾奇者。
なぜ軍神と傾奇者が、朝も暗いうちから岩場に立っているのか。
答えは簡単だ。
「魚釣りも兵術じゃ」
景虎姉上が、当然のように言い放ったからである。
慶次は、愛馬を繋ぎながら笑った。
「姉御、魚も陣形組みますかね?」
「組む。潮が先鋒、岩礁が副将、魚は伏兵。読めねば釣れぬ」
真顔である。
本気である。
この人は戦をしなくても、戦をしている。
最近、長宗我部兄弟から聞いた話が発端だった。
土佐の釣り名人、吉田孝頼。アジでヒラメを釣る兵術。餌で餌を釣る。効率重視。無駄なし。
景虎姉上は即座に取り入れた。
「まずはアジを釣る。アジを餌に、大物を獲る。……戦と同じじゃ」
「普通はタモを持ってくるもんですがね」
慶次は朱槍を肩に担いだ。
「タモ? 面倒くせぇ。大物は、これで刺しゃあいい」
「……それは戦場じゃ」
「釣りも戦でしょ?」
理屈が通っているようで、全然通っていない。
二人は並んで竿を出した。
潮の音が、岩に砕ける。
関門は、静かで荒い。
「慶次」
「へい」
「潮目を見よ。あそこ、流れがぶつかっておる。魚は楽をする」
「人間も同じですね。楽な流れに寄る」
「だから港も栄える。……狂犬は、あそこを押さえた」
西の戦線は、お市様が荒らしている。
関門を押さえ、門司と彦島を結び、関銭を取る。港は金を産む。金は兵を産む。
「姉御は釣り、あっちは商いと戦。分業ってやつですな」
「……わらわは、ただ魚が食べたい」
珍しく本音だった。
やがて、アジがかかった。
小ぶりだが、群れでいる。ぽんぽんと釣れる。
「まずは前哨戦じゃな」
「この調子なら、朝飯分は確保ですね」
景虎姉上は、釣れたアジを素早く餌に付け替えた。
竿を遠投する。潮の速さを計算し、流れの交差点へ送り込む。
その瞬間だった。
――ぎゅん。
竿が、折れるかと思うほど曲がった。
「来たか!」
景虎姉上の声が低くなる。
腕に力が入る。足場は悪い。潮は引く。岩は濡れている。
慶次が笑う。
「姉御、顔が戦の時ですよ」
「うるさい。潮を読む。引くな、巻け。……慶次、足元」
「任せな」
死闘だった。
竿はしなり、糸は鳴き、潮は持っていこうとする。
だが軍神は、退かぬ。
「魚よ。……わらわに負けよ」
真顔で魚に命じる。
意味はない。だが効きそうで怖い。
水面が割れた。
巨大な影が、白く反る。
「……クエか!」
大物。関門の主級。
慶次の目が光った。
「タモなんざ要らねぇな」
朱槍が、一閃。
「そこじゃ!」
景虎の声と同時に、慶次が槍を打ち込んだ。
水飛沫。岩に叩きつけられる尾。
二人がかりで引き上げる。
ずしり。
岩場に転がったのは、堂々たるクエ。
戦場の武将のような顔つき。
「……勝った」
景虎姉上は、にこりと笑った。
軍神が、魚に勝って嬉しそうにしている。
慶次は肩で息をしながら笑う。
「姉御、これ戦利品どうします?」
「門司へ回す。港の衆に振る舞う」
「商いの宣伝か」
「違う。……旨いものは、皆で食う」
潮風が吹いた。
東の空が、ようやく赤く染まる。
「土佐の爺の釣り、なかなか侮れぬな」
「今度、長宗我部兄弟も連れてきますか?」
「うむ。競わせるのもよい」
軍神は、竿を肩に担いだ。
「次はもっと大物を狙う」
「クエより?」
「潮そのものを釣る」
「無理です」
即答だった。
二人は、ニコニコしながら帰路についた。
彦島の城下では、まだ誰も起きていない。
だが、朝の港には――すでに軍神の足跡がある。
関門の潮は早い。
だが、それを読める者がいる。
戦も、商いも、釣りも。
すべては潮の読み合いである。
祐筆桃の日記(狂犬記)
西暦1556年3月7日(だいたい弘治二年・弥生中旬)。関門海峡。
本日未明、景虎姉上と前田慶次殿が、魚釣りに出陣。魚釣りを「兵術」と断言する軍神。もはや何をしても戦である。土佐の吉田孝頼殿の話を聞き、即座に実践。アジを餌に大物を狙う作戦。
結果、巨大なクエを討ち取る。慶次殿はタモの代わりに朱槍を使用。普通の漁法ではない。だが成功。関門の主を仕留め、二人は満面の笑み。
戦国の世、港を押さえ、潮を読む者が勝つ。姫様は戦で潮を読み、景虎姉上は釣りで潮を読む。狂犬領は、なぜかどの方面も本気である。
なお、クエは門司で振る舞われる予定。港の衆は喜ぶであろう。私は魚を捌く役に回された。筆より包丁の方が出番が多い今日この頃である。




