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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第295話 覆面の目元に♡が漏れる日

西暦1556年3月5日(だいたい:弘治二年・弥生上旬/早春)

関門の潮は、春が近づいても冷たい。

だが門司は冷たさの中に、妙な熱がある。港が稼ぎ、倉が回り、関銭が落ち、船が増える。人が増えれば揉め事も増える――そして、それを片っ端から片づけるのが、狂犬堂門司商館(門司城)である。

午後。狂犬お市様は瑠璃姫と徳姫を連れて、彦島から対岸の門司へ渡った。

「息子の様子が気になる」と言うが、息子に会いに行く母親の顔ではない。あれは――面白い玩具を見つけに行く顔だ。

門司城の奉行所は、騒がしい港とは対照的に、きっちり整っていた。

帳面、当番、倉庫、関銭、灯台の狼煙台、駐在所の巡回――全部が動いている。動きすぎて、逆に怖い。お市様の丸投げから生まれる統治は、普通こうならない。

その中心にいるのが、養子の北条氏規殿。

若いのに背筋が真っ直ぐで、挨拶が固い。だがその固さが奉行所の柱になっている。

「母上。ようこそ門司へ。何か不備でも……?」

「不備? あるわけないじゃろ。わらわが任命したのだぞ?」

「それが一番の不安要素です」

氏規殿は真面目に言う。真面目に刺す。

瑠璃姫が「氏規さま、そこ言っちゃうんだ……」と目で言い、徳姫は口元を押さえた。笑うのを堪えているのだ。徳姫は、そういう時だけ表情が動く。

そこへ、奉行所の奥から現れたのは――覆面の女。

目元しか見えない。なのに、目だけで分かる。「おめめぱちり」の美人だ。

しかも今日は、妙に目が艶っぽい。なんだこの仕上がり。港の治安担当に必要な艶ではない。

風魔小次郎(女性)。奉行補佐。

隠密同心を束ね、港の裏を抑える風のような存在――なのに、今日は春の匂いがする。

お市様は見逃さない。絶対に見逃さない。

「小次郎。今日、目が勝っておるな」

「……勝っておりません」

否定が早い。早すぎる。

「狂犬堂の化粧品を使ったな?」

「……風魔は、必要があれば何でも使います」

「必要って何じゃ。港の治安に、まつげは要るのか?」

「……要ります」

瑠璃姫が徳姫の袖を引いた。

「徳、見た? 今のやり取り、絶対……」

「うん。母上様、狩りの目」

徳姫の観察は短くて容赦がない。

氏規殿は咳払いをして、話を実務へ戻そうとした。奉行らしい努力だ。

「母上。本日の関銭の集計と――」

「うむ、うむ、よいよい。……ところで氏規よ」

「はい」

お市様の声が一段と甘くなった。甘いというより、いたずらの甘さだ。

「初陣も元服も済ませた。そろそろ嫁も考えねばならぬの。母が考えておくぞ?」

奉行所の空気が、ぴしりと固まった。

瑠璃姫は反射で背筋が伸び、徳姫は無言で目を伏せた。これは“見てはいけないやつ”である。

「母上、それは……」

氏規殿が言い切る前に、――どさっ。

小次郎殿が、手にしていた隠密同心の捜査記録帳を落とした。

落とした瞬間が面白い。

風魔の女は動じないはずだ。なのに今日は動じた。手が滑ったのではない。心が滑った。

小次郎殿は素早く拾い上げた。拾い上げたが、覆面の下の息が、一拍だけ乱れた。

氏規殿は気づかぬふりをして、視線を帳面へ逃がした。逃がし方が真面目すぎて、逆に怪しい。

お市様は、口元を押さえてニタニタした。

「冗談じゃ。冗談。……ほれ、小次郎も落とすほど驚くな」

「驚いておりません」

「驚いておる」

「驚いておりません」

堂々巡り。奉行所の秩序が、恋で一瞬揺れる。

その揺れを見て喜ぶ者が一人いる。狂犬お市様である。

母親参観――という名の観察を終えたあと、お市様は瑠璃姫と徳姫を連れて、門司の無料診療所へ戻った。

診療所は港の男たちで混む。切り傷、捻挫、酒で胃を壊した者、潮風で咳が止まらぬ者。港は儲かるが、身体は儲からない。

「次。座れ。口を開けろ。……おぬし、歯が欠けておる。喧嘩か?」

「へへ……景気がええと、酒も喧嘩も増えるっちゅうやつで……」

「景気と喧嘩をセットにするな」

口は辛いのに、手は早い。

洗う、縫う、薬を塗る。包帯を巻く。

瑠璃姫は器具を渡す手つきが安定し、徳姫は薬を磨る音が一定だ。二人とも医療に向いている。お市様が誇らしげなのも分かる。

けれど今日のお市様のニタニタは、診療の満足ではない。

「……いいもの見つけたのう」

「母上様、それ診療所で言う顔じゃないです」

「いいえ瑠璃。あれは大事な“門司の資産”じゃ」

「資産扱いしないでください……」

徳姫が首を傾げた。

「恋路って、資産なの?」

「動けば、治安が良くなる。奉行所が回る。笑顔が増える。……そして桃の胃が死ぬ」

「最後が一番リアル」

瑠璃姫が突っ込み、徳姫が静かに頷いた。

門司の潮は冷たい。

だが奉行所には、確かに春の匂いがした。

覆面の目元から、♡が漏れる程度には。

祐筆桃の日記(狂犬記)

西暦1556年3月5日(だいたい弘治二年・弥生上旬)。門司。潮風は冷たいが、港は銭の匂いで熱い。氏規殿が奉行所をきっちり回しており、姫様の丸投げにしては奇跡の統治である。

本日、姫様は瑠璃姫様・徳姫様を連れて奉行所へ「母親参観」。そこで奉行補佐・風魔小次郎(女性)殿が、覆面のくせに妙に目元が華やかであることを姫様に見抜かれた。狂犬堂化粧品の疑い濃厚。否定が早いほど怪しい。

姫様はさらに、氏規殿に向かって「そろそろ嫁を考える、母が考えておく」と言い出した。奉行所が一瞬凍った。小次郎殿が隠密同心の捜査記録帳を落とした。あの風魔が落とすとは、心が落ちたのだと思う。姫様はそれを見てニタニタし、「冗談じゃ」と言ったが、冗談の目ではなかった。

その後診療所へ戻り、姫様は治療を手早くこなし、瑠璃姫様・徳姫様は補助と調合が上達していた。良いことだ。悪いことは、姫様が「人の恋路は楽しい」と言ってニタニタが止まらないこと。私は門司まで来て胃が痛い。狂犬領の春は、胃薬が必需品である。

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