290話 「狂犬、お前なに食うたんや」――噂が戦より先に走る
西暦1556年2月20日(和暦:弘治二年 二月下旬ごろ)
長門国 下関・火ノ山城/彦島
戦が終わったあとに残るものは、死体でも火でもない。
――噂だ。
毛利本陣壊滅の報せは、潮より早く、矢より遠くへ飛んだ。
しかも、飛ぶほどに太る。太りすぎて別の生き物になる。
「聞いたか? 狂犬お市がな、毛利の本陣に一人で斬り込んで、千五百……いや二千や!」
「いや三千や。数は大事やろ、勢いが出る」
「勢いだけで戦できたら、侍いらんわ」
港の茶屋で、堺訛りの商人が笑いながら銭を数える。
尾張の旅人が眉をひそめて、盃を置く。
「つうか、話の続きが一番あかん。元就様を刻んで“膾にして食うた”って、なんやそれ」
「南蛮渡来の料理やろ? 知らんけど」
「知らんけど、で流すな」
「いや、もっとすごいのもあるで。狂犬お市は“男を求めて”夜な夜な本陣を襲って、男を絞り取ってミイラにした、とか」
「……それ、どっちが本陣やねん」
「本陣は本陣や。絞られる側のな」
「最悪や」
笑い話にしている間は、まだ平和だ。
だが噂には、刃がある。商いの刃、政治の刃、そして人心の刃。
――そして一番やっかいなのは、良い噂が一つも混じっていないことだ。
「狂犬は人を喰う」
「狂犬は女狐だ」
「狂犬は神罰だ」
誰かが恐れれば、誰かが乗る。
恐れは金になる。金は刃になる。刃はまた噂を増やす。
彦島城の広間。
祐筆桃は、届いた報告の束を抱えたまま、深い息を吐いた。
「……姫様。噂が、姫様を化け物にしすぎです」
「化け物は便利じゃろ」
狂犬お市様は、肩で笑った。
笑ってから、ちゃんこ鍋の具を箸でつまみ、真理姫の椀に入れる。
「真理、食え。食って鍛える。鍛えて勝つ。勝ってまた食う」
「はい、母上! おかわり!」
真理姫の目のキラキラは、冬を越えて加速していた。
勝頼は、気合いの入りすぎた兄の顔をしている。
「母上、今日の騎馬は二倍にしてください」
「二倍は死ぬ」
「死なないです。俺、狂犬家臣団ですから!」
「理屈になってない」
瑠璃姫と徳姫は、まだ幼い。
だが、朝の場にいるだけで、背筋が育っていく。
徳が小さく手を挙げた。
「……母上様。噂って、ほんとですか」
お市様は徳の頭を撫で、真面目な顔で言う。
「膾は食うたことない。刺身は旨い。ミイラも作らぬ」
瑠璃が恐る恐る聞く。
「元就様は……死んだのですか」
「……それは“噂”が先に答えを作る」
景虎姉上が、横から淡々と言う。
「戦の結果より先に、物語が出来上がる。だから、次の戦は“物語”も叩く」
「叩くって……」
「帳面と口と旗で」
桃がうなずいた。胃を押さえながら。
「はい。つまり、プロパガンダと情報戦です。嫌すぎます」
「嫌でもやる。嫌なことほど効く」
景虎姉上の言葉は冷たい。
だが、その冷たさが戦を終わらせる。
――現実の戦況は、噂ほど派手ではない。
しかし、十分に危険だった。
火ノ山城に入った武田勢は、前線を上げるため勝山城へ進出。
地元の国人衆を“武田流”で――つまり、礼儀正しく、しかし逃げ道なく、しばき倒す勢いで――調略していく。
「爺、これは調略か?」
勝頼が真田幸隆に小声で聞く。
幸隆は目を細めた。
「調略です。叩いて、褒めて、逃がさない。武田式じゃ」
「武田式、怖い」
「怖がれ。怖がって学べ」
一方、雑賀衆は火ノ山城に入り、関門海峡を睨む。
根来衆も加わり、鉄砲と僧兵の“圧”が海峡の空気を変えていく。
門司の動きは、さらに露骨だった。
「……門司、城捨てて逃げたって?」
桃が報告書を見て、声が裏返った。
「びびり過ぎじゃろ。あれだけ噂を盛られたら、そりゃ逃げるわ」
お市様がケラケラ笑う。
「噂が城を落としたか。便利な世の中じゃ」
北条氏規は、すでに次へ進んでいた。
「門司に北条、風魔、根来が入れば、関門は“通行税”ではなく“統治”になる。物流、軍需、情報――全部ここを通る」
「氏規、頭が冷たすぎる」
「冷たくないと死にます」
風魔衆は無言で頷いていた。
彼女らは、噂より静かに人を消す。
そして毛利は。
さくらとあやめの報告は、短く重かった。
「姫様。毛利三兄弟は、一揆鎮圧と高森城の陥落には成功。しかし、元就以下“十八将”の多くを失い、安芸へ撤退とのこと」
「……元就は死んだ、と」
「はい。そう流れております。真偽は――」
「真偽より、今は“流れ”が大事じゃ」
お市様は言い切った。
そして次の瞬間、いつもの平常運転へ戻る。
「よし。朝稽古の続きじゃ。勝頼、走れ。真理、三味線。瑠璃、徳、呼吸を合わせよ。生きるのも戦じゃ」
「はい!」
戦場で勝っても、国は勝っていない。
国に勝つには、噂に勝たねばならない。
だが、狂犬お市様は――
噂に勝つ気があるのか、わざと噂に乗っているのか。
桃には、どちらも胃が痛かった。
祐筆桃の日記(西暦1556年2月20日/弘治二年 二月下旬ごろ)
毛利本陣壊滅の報せ、全国に拡散。
拡散と同時に、噂が勝手に“肥育”され、姫様が怪物になっている。
「千五百人斬り」「元就を膾にして食った」「男を絞ってミイラ」――
誰が考えるのか、想像力が無駄にたくましい。
良い噂は一つもない。悪い噂だけが流行るのは、世の常である。嫌だ。
現実の戦況は、笑えない速度で動いている。
武田は火ノ山から勝山へ前線を上げ、国人衆を武田流に調略中。
雑賀と根来は関門を固め、門司は城を捨てて逃げ、北条氏規と風魔、根来が入り、関門は完全に狂犬堂と五か国連合の勢力下になった。
毛利三兄弟は高森陥落と一揆鎮圧には成功したが、元就以下の損耗が大きく、安芸へ撤退――と、さくら・あやめが報告。
「元就は死んだ」と流れている。真偽はさておき、流れは確実にこちらへ傾いている。
姫様は今日も朝稽古。瑠璃姫と徳姫、真理姫と勝頼まで巻き込み、平常運転。
噂が何を言おうが、姫様は姫様である。
……ただし、噂の処理は誰がやるのか。たぶん私である。胃が痛い。




