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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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287話 腹痛は“予兆”だった(永興寺・本陣炎上)

西暦1556年1月22日(和暦:弘治二年 正月二十二日ごろ)

深夜〜暁前 周防国・永興寺(毛利本陣)

毛利元就は、寝つけなかった。

昨日から腹がくだる。

悪い物でも食べたか、と言いたいが――食う物はいつも同じだ。戦場の飯に贅沢はない。ならば原因は別だ。

悪寒は消えた。

だが鳥肌だけが、しつこく残る。

(年を取ると、厠が近い。――いや、そこじゃない)

元就は畳に胡坐をかき、具足の緒を締め直した。

鎧は重い。だが重さがあると、心が落ち着く。子供の頃からの鉄則だ。

「こんな夜は、具足で寝るに限る」

隣で“立派な初老の武将”が、頷いた。

影武者――宍戸隆家。今宵も上座で「元就様」らしく構えている。

「流石に、鎧で寝るのは……」

「宍戸よ。鎧はな、寝るためにある」

「武具は戦うためにございます」

「戦うために寝る。よって鎧で寝る。理屈は通っておる」

宍戸が口を閉じた。

周囲の家臣たちも、笑っていいのか迷い、結局だれも笑わない。永興寺の夜は静かで、静かすぎて余計に腹が鳴る。

元就は槍を手元に置いた。

担いで寝るのも、悪くない。暗殺に気をつけ、家臣に気をつけ、身内さえ疑ってきた人生だ。今さら「安全地帯です」と言われても、胃が信用しない。

柱を背にして目を閉じる。

(槍がある。鎧がある。……これで眠れる)

――眠れた、と思った。

だが老人とは因果なもの。

朝は早起き、厠は近い。

元就は目を開け、そっと立ち上がった。足音を殺す。寺の廊下は冷たい。外はまだ暗いが、東の空がうっすら白んでいる。

厠で用を足しながら、耳を澄ませる。

本陣だからか、安全地帯だからか、不寝番の気配も薄い。うとうとしている――その隙の匂いがする。

(嫌な匂いだ)

次の瞬間。

「……ん?」

火の匂い。

朝餉の支度か? いや、寺の朝は早い。だが、こんな匂いだったか。

焦げた油の匂いが混じる。火が“走っている”匂いだ。

元就が厠を出た、その刹那――

ドンッ、ドドドドドドッ!

永興寺が震えた。

火縄銃の一斉射撃。寺の夜を、雷みたいに裂きながら連なっていく。

「うてぇぇぇ! うてうてうて! 止めるなぁぁぁ!」

怒鳴り声が境内を揺らす。

人の叫び。瓦の割れる音。馬の嘶き。鍋が落ちるような音。どれもこれも、寺の音じゃない。

(本陣に敵――? あり得ぬ。だが、ある)

元就は槍を掴み、具足のまま走った。腹の痛みなど忘れるほど、背中が冷える。

「宍戸! 宍戸! おるか!」

上座の間に飛び込むと、宍戸隆家が跳ね起きていた。影武者であろうと、目覚めは武将だ。

「元就様、これは――」

「掌握せよ。火縄銃の音が止まぬ。近い……近すぎる!」

二人が身を屈めた瞬間、障子が破れた。

弾が飛んできたのだ。畳に木屑が散る。寺の柱が鳴く。

「元就様、お逃げください! ここは我らが――」

「黙れ。逃げるにしても、どこへ逃げる」

外の火縄銃は、止まらない。

止まらないどころか、波が寄せるみたいに“近づいてくる”。

どこかで、甲高い声が混じった。

「撃ち終わった者、次! 次の列、前へ! 筒口下げるな、焦げたら水つけろ!」

――女の声。

戦場で女の声が通る時は、だいたい地獄だ。

「……狂犬か」

元就が呟く。宍戸が唾を飲んだ。

「まさか……この永興寺へ?」

「まさか、で来るのが狂犬だ。わしの腹が、昨日から教えとったわ」

境内へ出る。

夜明け前の薄青い空の下、火が走っている。松明の火ではない。建物が燃えている。

そして眼下――見えた。

狂犬旗。

武田菱。

北条の三つ鱗。

さらに、見慣れぬ“土佐の意匠”――長宗我部の旗まで混じる。

「なんじゃ……この軍勢は……!」

宍戸の声が震えた。

赤い鎧の塊が、本陣を幾重にも突き破ってくる。

赤備。鎧の色が夜の中で異様に映える。槍先が、火の筋みたいに揺れる。

その横、黒い影が疾る。

忍び――風魔。中忍が散り、道を作り、退路を断ち、逃げ道を一つずつ潰していく。

さらに後ろ。

“毘”の大旗。

「……毘……!」

宍戸が息を呑む。

毘は軍神。

その旗の下、銀のように冴えた女武将が立つ。白い息、白い肌、冷たい目。長尾景虎。

景虎の横で、凶悪な鉄の手甲――ガントレットで武士を叩き潰している大男がいた。鬼小島弥太郎。越後無双の塊が、寺の石段を平地みたいに踏み抜いてくる。

元就は理解した。

自分の腹痛の意味を。

「宍戸……逃げるぞ」

「はっ……!」

だが“逃げる”と言った瞬間、再び火縄銃が唸った。

ドドドドドッ!

境内の端、松林の影からの射撃だ。

狙いは明確。逃がさない。逃げる者から落とす。

「伏せろ!」

宍戸が叫び、元就の肩を押した。

その次の刹那。

ズン、と衝撃が来た。

元就の太腿を弾が貫いた。

熱い。焼けた鉄棒を突き刺されたような熱さ。膝が抜ける。

「ぐっ……!」

血が具足の隙間から滴った。痛みで視界が白くなる。だが元就は歯を食いしばる。

「……これまでか」

宍戸が即座に元就へ背を向け、しゃがみ込む。

「元就様! 担ぎます!」

「宍戸……息子らを……隆家の家を……」

「その前に、元就様の命です!」

宍戸が元就を背負い、走り出そうとした、その時。

赤備が、正面から突っ込んできた。

「いたぞ! ここじゃぁぁ!」

飯富源四郎。赤備の若武者が、槍を振り上げる。

血に濡れた槍先が、夜明けの薄光を食って光る。

「宍戸ぉぉ! 離せぇ!」

宍戸が踏ん張る。背中に元就の重み。太腿に弾。腹も痛い。最悪の条件が揃っているのに、元就の目はまだ死んでいない。

(わしが、具足で寝た意味はあったか?)

飯富源四郎が叫んだ。

「毛利元就! 討ち取ったりぃぃぃ!」

そして、赤備の列から大歓声が上がる。

「うおおおおお!」

「毛利元就ぉぉぉ!」

誰かが倒れた影を見て、勝ち鬨の声を上げている。

――影武者の宍戸隆家が、上座から逃げ出したところを撃たれ、倒れたのか。

あるいは、混乱の中で“元就らしき者”が倒れただけなのか。

戦場は、見たいものが見える。

元就の意識は、そこで薄れていった。

血が流れる感覚だけが残る。腹痛も、鳥肌も、すべてが遠い。

最後に聞こえたのは、女の声だった。

「撃て。まだ終わっておらぬ。――“本物”は、必ず逃げる」

狂犬お市の声。

笑っているのか、怒っているのか、どちらでも恐ろしい声だった。

元就は、闇に落ちた。

祐筆桃の日記(西暦1556年1月22日/弘治二年 正月二十二日ごろ)

永興寺にて夜襲。

火縄銃の一斉射撃が“波”のように寄せ、寺が戦場に変わったと聞く。

元就殿は腹をくだし、鳥肌が止まらず、鎧で寝たという。

「鎧で寝ると安心」と言う爺は多いが、だいたいその夜に襲われる。戦国あるあるである。

赤備が突き破り、毘の旗が立ち、北条の忍びが道を作り、狂犬旗が全体を呑む。

毛利方は「元就討ち取ったり」の大歓声が上がったが、戦場の歓声ほど信用ならぬものはない。影武者がいるなら尚更だ。

姫様はたぶん笑っている。

「ほれ見よ、腹痛は天の知らせじゃ」と言いそうで、わらわの胃も痛い。

戦とは、刀より先に胃を削る。筆も同じく削れる。

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