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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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285話 謀将の悪寒

西暦1556年1月22日(和暦:弘治二年 正月二十二日ごろ)

周防国・永興寺

夜明け前の永興寺は、異様に静かだった。

冬の冷気が畳に沈み、寺の梁がわずかに軋む。

毛利元就は、布団から半身を起こしたまま、しばらく動かなかった。

――寝つけぬ。

理詰めの武将である。

謀に始まり、謀に終わる。

戦とは算盤であり、感情は邪魔だ。そう自らに言い聞かせ、六十余年を生きてきた。

だが。

「……悪寒がする」

何も起きていない。

包囲は順調。高森は圧迫。鞍掛は再編。

山口も、いずれ手に入る算段。

それでも、背に冷たいものが走る。

鳥肌だ。

元就は小さく舌打ちし、声をかけた。

「桂を呼べ」

外で控えていた足軽が動く。

本陣の座には、立派な初老の武将が静かに座していた。

影武者・宍戸隆家。堂々たる姿だ。

その横で、少し小汚い農民風の老人が、湯呑みに茶を注いでいる。

その老人こそ、毛利元就本人。

「桂元澄、参りました」

桂が平伏する。

形式上、問いかける先は“立派な元就”。

「今の情報を、すべて欲しい」

桂は頷き、控えの者に命じる。

「口羽通良を」

やがて、口羽が入る。

「山陰は、尼子晴久が動員令を発しました。石見大森銀山を狙い、春には動く模様」

農民姿の元就が、湯呑みを置く手を止める。

銀山。

「元春からは?」

「高森包囲は順調。一揆も鎮圧。圧迫は効いております」

「隆元、隆景は?」

「いぶに時間がかかっております。狂犬の調略、根が深いと」

その言葉に、農民姿の元就の目がわずかに細くなる。

狂犬。

「他は」

「吉見三千、山口館へ進軍。杉が蜂起、陶の息子と交戦拡大」

寺の空気が、重くなる。

宍戸が静かに言う。

「……状況は、こちらの掌中です」

農民姿の元就が、ゆっくりと笑う。

「掌中、か」

桂が恐る恐る問う。

「何か、御懸念でも」

元就は、茶を一口含んだ。

「懸念はない。算は合っておる」

それでも、背の冷えは消えない。

尼子か。

銀山か。

山口か。

違う。

もっと、直感的な何か。

「本陣を、下げるか」

宍戸がぴくりと動く。

「ここで下げれば、周防長門の武士に侮られます」

「わかっておる」

元就は、茶碗を静かに置いた。

「わしが下げれば、毛利が揺らぐ」

老いた足軽姿の指先が、畳を軽く叩く。

「……我慢じゃ」

桂が言う。

「尼子が動く気配でしょうか」

元就は首を振る。

「尼子は動く。だが、それは計算内」

「では」

「わからぬ」

理詰めの男が、そう言う。

「わからぬ悪寒が、一番嫌いじゃ」

外では、冬の風が松を鳴らす。

元就は立ち上がった。

「高森の兵を増やせ。吉川に伝えよ。寺の守りも厚くせよ」

「寺の守り、ですか?」

「わしは農民じゃ。だが農民が死ねば、毛利が死ぬ」

宍戸が苦笑する。

「殿が死ねば、毛利が死ぬのです」

元就はちらりと影武者を見た。

「だからおぬしが座っておる」

影武者は深く頭を下げる。

外から僧が報告に来る。

「今朝、沖に異様な船影は見えませぬ」

異様な船影。

元就の胸が、わずかにざわつく。

「……そうか」

尼子でもない。

山口でもない。

何かが、海から来る。

理では説明できぬ、虫の知らせ。

元就は空を見上げた。

冬の空は澄み、何事もないように青い。

「来るなら来い」

小さく呟く。

「謀には、謀で返す」

だがその声は、わずかに乾いていた。

周防の空気は、静かに震えている。

まだ誰も気づかぬまま。

祐筆桃の日記(弘治二年 正月二十二日/西暦1556年1月22日)

永興寺の空気が、ぴりりと張り詰めているとの報が入った。

元就殿は理詰めの男。算盤で戦をする爺である。だが、その爺が悪寒を覚えたという。

虫の知らせは、だいたい当たる。

わらわの姫様も、理屈より先に動くときがある。あれは怖い。だが強い。

毛利は今、算が合っている。

だからこそ怖い。算が合っているとき、人は慢心する。

姫様は算が合わぬ戦を好む。

元就殿は算が合う戦を好む。

どちらが勝つか。

胃が痛い。だが筆は止めぬ。

戦国は理と直感のぶつかり合い。

次の一手で、歴史が傾く。

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