284話 青龍、土佐より来たる
西暦1556年1月19日(和暦:弘治二年 正月十九日ごろ)
豊後水道・洋上
冬の海は青い。
だが土佐沖とは違う、どこか鋭い青だ。潮の流れも、空気の匂いも変わる。
狂犬お市の武装船団は、浦戸を発って数日、豊後水道へと入っていた。
東には伊予、南には豊後。ここを抜ければ、防長はすぐそこだ。毛利元就の本陣へと続く海路。
船団の空気は、明らかに変わっていた。商いの匂いは薄れ、戦の気配が濃くなる。
甲板の中央、風を受ける場所で、元親と親貞は並んで立っていた。
二人の前には、新しい鎧。そして、布に包まれた二振りの長柄武器。
「ほれ、持ってみよ」
狂犬お市が、にやりと笑って布を払った。
現れたのは、青龍偃月刀と蛇矛。
刃は青光りし、柄は握りやすく削られている。明らかに実戦を想定した造りだが、どこか“趣味”が混じっている。
「関羽と張飛を知っておるか?」
元親が小さく頷く。
「三国志……父上が好まれます」
「うむ。わらわも好む。義を掲げて戦う者は、美しくなければならぬ。武器もな」
親貞が目を輝かせる。
「これ、今回の功労者にやるつもりやったんですか?」
「そうじゃ。慶次か権六あたりしか振れぬかと思うてな。重いぞ。そこらの槍とは違う」
元親が、静かに偃月刀を持ち上げた。
重い。
だが、重さは嫌ではない。手に吸い付く。
「……重いですが、振れます」
そう言って、甲板の上で一閃。
風が鳴る。
周囲の水夫たちが、思わず息をのんだ。
親貞も蛇矛を構える。
槍とは違う、しなりと重心。だが親貞の足さばきは軽い。柄を滑らせ、突き、払う。
「兄上、これ、えいぞ」
「うむ」
お市は腕を組んだ。
「ほう……」
もう一度、元親が振る。
今度は踏み込みが深い。
刃先が空を切る音が、まるで龍の唸りのように響く。
お市の目が、わずかに細まる。
「土佐は、軍神を隠しておったか……」
その呟きは、誰に向けたものでもない。
元親は振り終え、ゆっくり息を整えた。
胸が熱い。海風のせいではない。
「……土佐は狭い、と思っておりました」
「今はどうじゃ?」
「狭いのは……己の見ていた範囲でした」
お市が笑う。
「よい答えじゃ。戦は地図でやるが、勝敗は心で決まる。広く見よ。だが、足元は忘れるな」
親貞が割り込む。
「姫様、兄上、顔が変わりました」
「変わったか?」
「浦戸で釣りしてた兄上は、ぼーっとしとった。今は……」
親貞は少し照れながら言う。
「今は、目が光っとる」
元親は苦笑する。
「親貞、お前も光っとる」
「当たり前や。兄上だけ行かせるか」
そのやり取りを、お市は面白そうに見ていた。
「兄弟はよい。だが、戦場では情に溺れるな。助けるなら、勝ってから助けよ。死んで抱き合うのは、美談ではない」
その言葉の重さに、二人は黙った。
豊後水道を進む船団の先頭では、景虎が指揮艦から旗を振っている。
女でありながら、いや女であるがゆえに、風に立つ姿は凛としている。
お市はその背を見て、ふと呟いた。
「月下の誓いは、まだ生きておる。わらわは死なぬ。死ねぬ」
元親はその横顔を見た。
美しい。だが、それ以上に“強い”。
「姫様」
「なんじゃ?」
「俺は……」
一瞬、迷う。
だが言う。
「俺は、四国一の武士になります」
親貞がすぐに言う。
「俺は、その右腕や」
お市は笑った。
「小さいのう」
「小さい?」
「四国一では足らぬ。天下に名を刻め。土佐は、いずれそなたの器に合わせて広がる」
元親の胸が震えた。
「……天下」
「うむ。夢は大きく。腹は据えて。まずは元就を叩く。話はそれからじゃ」
水夫が叫ぶ。
「伊予の陸影、左舷!」
海の色が変わる。
戦が、近い。
元親は偃月刀を肩に担いだ。
親貞は蛇矛を握り直す。
土佐の姫若子は、もはや“姫”ではなかった。
まだ将ではない。
だが、確実に何かが目覚めていた。
お市が背を向け、甲板中央へ歩く。
「覚悟せよ。戦国は甘くない。だが、面白いぞ」
元親は小さく笑った。
「……面白そうです」
その顔に、もう迷いはなかった。
豊後水道の風が、三人の髪を揺らす。
土佐の海は遠ざかり、天下の海が広がっていた。
祐筆桃の日記(弘治二年 正月十九日/西暦1556年1月19日)
豊後水道に入りました。海が鋭い。風が痛い。戦が近い。
そして、姫様はまた逸材を拾いました。今度は“青龍を振れる少年”です。
偃月刀は、慶次殿か権六殿しか無理と思っていたのに、土佐の若君が様になってしまいました。姫様の目が楽しそうで、私は胃が痛いです。
元親殿は静かです。だが静かな者ほど怖い。姫様の「天下に名を刻め」に、目が燃えました。あれは火種です。放置すると大火になります。たぶん四国が燃えます。帳面の量が増えます。私は祐筆です。未来の戦費計算が怖いです。
親貞殿は明るい。兄を支える弟。戦場では危ない組み合わせです。だが姫様は「勝ってから助けよ」と言いました。あれは本気です。姫様は、死ぬ美談が嫌いです。生きて勝つのが好きです。
そのくせ自分は最前線に立つのですから、困ったものです。
戦が近い。私は筆を研ぎます。
戦国は血で動くが、記録で残る。
胃は痛いが、書く。




