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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第281話 元就、寺で震えろ――紫陽花作戦・改

西暦1556年1月14日(弘治二年〔だいたい〕正月十四日) 紀伊国・下津港町

下津の海は、冬の腹をしていた。

潮が黒く、風が塩を刺してくる。港町の人々は慣れたもので、肩をすぼめつつも荷を動かし、声を張り、銭の匂いだけは温かい。

狂犬お市様が桟橋に降り立った瞬間、空気が一段、締まった。

周りの商人が気づかぬふりをして、ちょっと距離を取る。――あれは知っている者の身の処し方だ。近づくと、巻き込まれる。良い意味でも悪い意味でも。

「姫様」

百地さくらが一礼する。隣に立つのは百地丹波。伊賀の上忍、顔は商人、腹は忍び。和歌浦の雑賀港町に“百屋(狂犬堂の暖簾分け)”を構え、諜報行商人を束ね、早船と早馬で情報を織っている。

丹波は、風の音に紛れるほど低い声で、しかし内容は釘のように硬く刺してきた。

「毛利は防長攻め、七千にて出陣。周防・鞍掛城を十月下旬に落とし、所領安堵で兵の再編成を進めております。毛利隆元、小早川隆景は地域の懐柔。吉川元春が周防高森の山城を包囲。高森に五千、鞍掛に千」

お市様の顔が渋くなる。

美人が渋い顔をすると、だいたい皆は黙る。これは戦場でも同じだ。

「……元就の調略が進み、兵が集まっております。高森を抜かれますと、鞍掛の地侍を編成し直し……一万に届くかと」

「一万、ねぇ」

お市様の声は乾いていた。怒りより先に計算が走っている。

そこへ、銀の気配が並ぶ。

長尾景虎――越後の銀龍。雪ではない、白でもない。光る冷たさ。

さらに武田太郎義信、飯富虎昌、弟の源四郎、真田幸隆。

そして北条の刃、風魔小次郎(女性)。風魔衆が外側を丸ごと締め、松林の手前から先を“誰もいない場所”に変えている。

港町の横、松林の中。

お市様は周防長門の地図を広げた。紙が松葉に触れ、かすかに音を立てる。

「軍議じゃ」

それだけで皆の背が伸びた。

「だれぞ、作戦はあるか。戦は始まっておる。わらわの腹案は、ある。先にそなたらの発案と覚悟を聞きたい」

言いながら、視線だけで周囲を測る。

“言葉が出る者”と“腹が決まってる者”を同時に見ている目だ。

その間にも、雑賀衆と根来衆は港の別動線で検査を受け、舟へ乗り込んでいる。祐筆の桃と真理姫たちが、火薬の量から口の軽さまで、徹底して締めている――と聞いている。聞いているだけで胃が痛い。

虎昌が口を開く前に、義信が先に言った。

「……正面は勝てる。だが、勝っても終わらない。毛利は“勝った顔”をして、次の兵を寄せる」

源四郎が頷く。

「なら、勝つ前に“寄せさせぬ”。寄せる仕組みを壊す」

真田幸隆が笑う。温い笑いなのに、背中が寒い。

「仕組み、とは口でござる。地侍の口。坊主の口。港の口。……口が動けば、兵も動く」

風魔小次郎が、すっと地図の海沿いを指でなぞった。

「海の口もある。船が運ぶ。銀が運ぶ。噂が運ぶ。止めるなら、夜」

「風魔、夜言うな。胃が縮む」

義信が真顔でツッコむと、小次郎は無表情のまま首を傾げた。

「縮むの、大事。腹が減る」

「話が怖いわ!」

銀龍が、ふっと息を漏らして笑った。景虎だ。

その笑みは、戦場の刃を柔らかく包む布みたいな、妙な安心がある。

お市様は、その笑いを受けて少しだけ肩の力を抜き――丹波に問うた。

「さくら。丹波。元就の本陣はどこじゃ」

丹波が即答する。

「岩国、永興寺にて調略に努めております」

「……は?」

お市様の声が一段上がった。

珍しい。だが、それは怒りではなく、呆れと好機の匂いだ。

「高森におらんのか?」

「高森包囲は吉川元春と吉川家臣団にて」

「元就の家臣団は?」

「寺にて元就を警護しております」

お市様は地図を叩いた。

「村上水軍、村上武吉は?」

「十一月、大島軍宇賀島の水軍衆を殲滅し、本拠に帰っております」

その瞬間、お市様の目が変わった。

腹が決まる瞬間の目だ。刃が鞘から半分抜ける目。

「――やるか」

誰も口を挟まない。

景虎が、銀龍の声で確認する。

「お市、まさか」

お市様は、にたりと笑った。

「まさか、じゃ。元就本陣、強襲」

義信が一歩踏み出す。

「寺だぞ……毛利の本丸の頭が、寺で調略?」

虎昌が低く唸る。

「油断か。信心か。……いや、元就の性格なら、寺は“人が集まる井戸”だ」

幸隆が頷く。

「井戸を突けば、水が濁る」

お市様は地図の海岸線から永興寺まで、指で線を引くように辿った。

「海岸から本陣まで、だいたい一里半。――よい。今から作戦を言い渡す。

紫陽花作戦“改”でいくぞ」

その名を聞いた瞬間、桃がいたら絶対こう言う。

“また花の名前で誤魔化してる!ブラック企業の香りがする!”

……いない。今はいない。だから言い放題だ。

「風魔」

小次郎が静かに膝を折る。風魔衆の気配がさらに薄くなる。夜が一歩近づく感じ。

「今から早舟で先行。夜襲するゆえ、海岸線の確保。侵入撤収路の確保。元就本陣までの誘導――任せる」

「了解。潮、読む」

「読むな、書け。道を作れ」

「道、作る」

短い。怖い。頼もしい。

「百地丹波、さくら」

丹波とさくらが同時に頷く。

「鞍掛、高森の地侍らに“狂犬大内の布告”を提示。年貢は水田一割、畑無税、商工は無税。換金作物は買い取り。……毛利は年六割だと、所領安堵も嘘だと、一揆の火を入れよ」

丹波の眉がほんの少し動く。難度が高い証拠だ。だが口は迷わない。

「火は入れます。ただし、火を入れた者が焼かれぬよう、逃げ道も」

「それは下関じゃ。失敗したら下関へ逃げよ。必ず拾う」

言い切るのが、お市様の怖さであり優しさだ。

「そして、侵入できたら――」

お市様の指が、火縄銃の想像をなぞるように空を切る。

「わらわたちの火縄銃二千五百。よいと言うまで射撃」

義信が目を見開く。

「二千五百……撃ち尽くす気か」

「撃ち尽くさぬ。撃ち“折る”」

景虎が、静かに続けた。

「折れたところへ、突く」

お市様が頷く。

「景虎姉上、水陸両用機動隊三百、指揮を頼む。赤備とともに突撃」

虎昌が口の端を上げる。

「赤備が突くなら、道は赤くなる。……よい。突く」

「わらわも百を率いる」

お市様は、最後に真田幸隆を見る。

「真田。わらわの横で突け。口も刈れ。腕も刈れ」

幸隆は笑った。

「御意。刈り取りは、得意でございます」

義信がぼそっと言う。

「……真田、農民かよ」

「義信様、農民を侮ってはなりませぬ。戦は土かららです。」

「言うと思った!」

ツッコミが入る。張り詰めた空気が一瞬だけ緩む。

そういう“緩み”を、お市様は狙って入れる。誰かが折れる前に。

お市様は地図を畳み、最後に言った。

「以上じゃ。質問!」

誰もすぐには口を開かない。

質問がないわけじゃない。質問の前に、覚悟が必要だからだ。

景虎が、銀龍の目で問う。

「お市。元就を討てば、毛利は割れる。だが討てねば、怒りの刃が来る。覚悟は――」

お市様は、笑った。いつもの狂犬の笑いに近い。

「わらわが、狂犬お市じゃ。

怒りの刃?――ふむ。なら、踊らせてやる。

元就が寺で調略するなら、寺で震えさせてやるだけよ」

風が松林を鳴らす。

港の方から、船の軋む音が届く。戦の音だ。

「次、浦戸港町で早舟情報、頼むぞ」

お市様はそう言って歩き出した。

背中が小さく見えるのに、やけに大きい。

この人は、勝つために、笑うために、死ぬ気で生きている。

祐筆・桃の日記(狂犬記)

西暦1556年1月14日 弘治二年だいたい正月十四日 下津港町

今日、姫様が「は?」って言った。

本当に「は?」って言った。美人の「は?」は破壊力がある。周りが凍る。私の胃も凍る。

元就が高森におらず、岩国の永興寺で調略――そこまでは情報。

問題は、その次。

姫様が笑った。あの笑いは、だいたい碌でもない作戦が決まった合図だ。

紫陽花作戦“改”。

花の名前で誤魔化してるけど、中身は「寺を強襲して元就を折る」。誤魔化しきれてない。

風魔が先行して海岸を取る。百地が地侍に火を入れる。火縄銃は二千五百で「よいと言うまで撃つ」。

私は聞いただけで胃が痛い。撃つ側の肩も痛いはず。

雑賀と根来の検査は私と真理姫で締めている最中。

姫様が勝手に“撃て”って言うから、火薬の量を倍にしたくなるのを我慢した。

我慢した私、偉い。誰か褒めて。

それにしても、武田の義信様が真面目にツッコミを入れてくれるのが救い。

真田様の「刈り取り」発言は救いじゃない。怖い。農民を巻き込むな。

明日から、さらに忙しくなる。

私は祐筆で、祐筆は最古参幹部で、姫様いわく“狂犬堂ではお婆様”らしい。

お婆様、働きます。

胃を押さえながら。

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