第279話 黒い桃源郷
西暦1556年1月13日(弘治二年〔だいたい〕正月十三日) 熊野灘沖―紀伊国・下津へ
熊野灘の冬は、海が鈍い。
晴れているのに、光が冷たい。波は荒れていないのに、重たい。船底の奥で、何か大きな獣が寝返りを打つみたいに、どん……どん……と響く。
それでも、狂犬お市様の武装船団と商業艦隊は、順調に航海を重ねていた。
この船団は、ただの「軍」ではない。
戦うための船と、稼ぐための船が、同じ旗の下で一列に並んでいる。狂犬堂の商船は、普段なら塩・干物・織物・石鹸・化粧品を積む。だが今日は、槍や火薬や鉄材も同じように積んでいる。銭の匂いと火薬の匂いが混ざるのが、いちばん「戦国」らしい、と桃は思う。思うが――鼻に来る。
艦隊の中核、狂犬式戦闘艦ア-00番艦(ガレオン級)「桃源郷」。
名前だけは、腹立たしいほど美しい。
「桃源郷、ですって……」
甲板の隅で、祐筆桃は帳面を抱え直した。潮風が紙をめくろうとするのを、指先で押さえる。船は揺れる。墨はにじむ。胃は痛い。いつも通り。
「何が桃源郷よ。ここ、労働の楽園じゃなくて、労働の地獄なんですけど」
背後から、くつくつ笑う声。
「桃。口が悪いぞ。海が聞いておる」
振り向けば、お市様がいた。
海上でも化粧が崩れていない。いや、崩さない。本人の意地と、狂犬堂の粉と、そして「世界一の美女は海風に負けぬ」という意味不明の信念で成り立っている。
「姫様、海は聞いてもくれません。海は殴ってきます」
「殴られたら殴り返すまでじゃ」
「それ、波に勝てる人の発言です」
お市様は楽しそうに笑い、桃の肩をぽんと叩いた。
この艦隊を束ねるのは、九鬼嘉隆。
港で育った男の目は、海の機嫌を読むのが早い。船が乱れないのは、九鬼の指揮が骨太だからだ。
「帆を少し絞れ。熊野は、いきなり顔を変える」
「はっ!」
号令が飛ぶ。動きに迷いがない。
船団が一段、締まった。
今回、熊野灘を越える途中で、紀州の雑賀衆と根来衆を「傭兵」として正式に雇い入れた。年二万貫、一年契約。銭で縛る――と言えば下品だが、戦国はだいたい下品でできている。むしろ、銭で形にしないと、義だけでは腹が減る。腹が減ると、槍は折れる。
「雑賀も根来も、契約書を読めるのが怖いわ」
桃がぼそっと言うと、お市様が涼しい顔で返す。
「読める者ほど、裏切りにくい。裏切るなら、理由を言うからな」
「姫様の言う『理由』は、だいたい拳が付いてきますけど」
「拳は言葉じゃ。分かりやすい」
「……それを言葉扱いしてるのが怖いんですって」
そのとき、隣の艦から、白い旗が風を切って見えた。
狂犬式戦闘艦ア-01番艦「金龍」。そこに立つのは、長尾景虎――越後の龍。白狼ではない。白い息を吐きながら、凍るように美しく、そして鋭い。
お市様は金龍へ手を振った。
「姉上、波はどうじゃ!」
景虎の声が、海を割って返る。
「波より、そなたの機嫌の方が読めぬ。今日は大人しいか?」
「いたって平常運転じゃ!」
「……それが一番怖い」
周囲が小さく笑う。
義理姉妹の会話は短いのに、安心感がある。血より濃い、とお市様が言うのは、こういうところだ。命を預け合う者同士は、言葉が少なくていい。
甲板の反対側では、武田真理姫が、津軽三味線を抱えていた。
「狂犬病」を発症してからというもの、目がキラキラして止まらない。勝頼と並んで、揺れる船の上でも指を止めない。狂犬式の鍛錬は、どこでも鍛錬だ。
「兄上、船が揺れると、音が跳ねます」
「跳ねるのは、指じゃなくて胃だろ」
勝頼が笑いながら言う。
真理は真面目に頷いた。
「はい。なので鍛えます。胃も」
「鍛え方が違う」
「狂犬式です」
「……母上の言葉を便利に使うな」
二人の会話が、海風に混じって軽い。
こういう軽さが、戦の前には必要だ。重い空気は、鎧より先に人を疲れさせる。
一方で、武田太郎義信は、笑ってなどいなかった。
甲板の端で、両頬をぱん、と叩く。気合いを入れる仕草は、武田のそれだ。赤備の誇りは、鎧がなくても赤い。
飯富虎昌が、横で短く言った。
「太郎殿。赤は、胸に着るものだ」
義信は息を吐き、拳を握った。
「承知している。……母上の涙は、忘れぬ」
虎昌は頷く。
三条の方の涙を背負ってここにいる。それが義信にとっての「義」だ。
九鬼嘉隆が甲板を歩きながら、景虎の金龍へ視線を投げ、桃源郷の帆を見上げる。艦隊が紀州へ入る準備が整ったのを、肌で確かめている。
そして――
マストの上から、見張りの水夫が叫んだ。
「紀州! 下津港町、見えたぞーっ!」
空気が変わった。
船の揺れは同じでも、人の背筋が一段伸びる。目が前を向く。声が減る。戦の入口に立ったときの、あの静けさ。
水平線の先に、港町が見える。
入り江に広がる家々、船影、煙。山の影が背にあり、海の口が開いているように見えた。
桃は思わず呟く。
「港が……口を開けてますね」
お市様が、当然のように言う。
「戦国無双を決める大戦へ、ようこそ、じゃ」
「言い方が観光案内なんですよ」
「観光も戦も、客が来ねば始まらぬ」
「姫様の理屈、強い」
景虎の金龍がわずかに前へ出る。
先導の位置を取るのは、越後の龍に相応しい。九鬼の旗が翻り、船団が列を整える。雑賀と根来の船が、きっちり間に入る。傭兵だが、ここでは同じ「狂犬側」だ。金で結んだ義が、隊形になって現れる。
真理が、小さく三味線を鳴らした。
勝頼が、港を見て一言。
「ここからが、本番だな」
真理は微笑む。
「はい。母上が『さあ戦国じゃ』と言ったら、逃げ道はありません」
勝頼が苦笑した。
「逃げ道があったら、先に母上が塞ぐ」
桃は胃を押さえた。
その会話が冗談で済まないのが、狂犬家臣団の怖いところである。
錨を下ろす準備が進む。
下津の港に、桃源郷が滑り込む。波が船腹を撫で、さっきまでの熊野灘の鈍さが、少しだけ軽くなる気がした。
桃は帳面に書く。
この港は、ただの補給点ではない。雑賀と根来を正式に乗せ、次の海へ出る扉。西国へ踏み込む最初の一歩。
――桃源郷は、入口。
中身は、いつも修羅場。
そう思いながら、桃は筆を止めない。
祐筆・桃の日記(狂犬記)
西暦1556年1月13日 弘治二年正月十三日 熊野灘沖→紀州下津
熊野灘を越えた。冬の海は重く、揺れが胃に来る。
それでも艦隊は乱れない。九鬼様の指揮が強い。海を相手にする人は、声が無駄に大きくない。必要な言葉だけで船が動く。
雑賀と根来を年二万貫・一年契約で雇った。銭で結ぶのは下品だと言う者もいるが、下品でも腹は満ちる。腹が満ちれば槍が折れにくい。戦国はだいたいそういうものだと思う。
景虎姉上の金龍が先に出た。やはり越後の龍は格が違う。
真理姫様は揺れる甲板で三味線を弾いていた。狂犬病は治らないらしい。勝頼様も落ち着いている。二人とも戦へ向けて、静かに熱い。
下津港町が見えた。港が口を開けているように見えた。
入口はいつも綺麗に見える。入ったら大体修羅場。
桃源郷という名前は、今日も腹が立つ。
胃薬、次の寄港で必ず補給する。
私は祐筆なので、倒れる前に書く。




