第278話 「冬の港、義の手」
西暦1556年1月10日(弘治二年〔だいたい〕正月十日)
尾張国・鳴海城 城下町の港
冬の海は、色が薄い。
潮の匂いまで冷たくて、息を吸うだけで胸の奥がきゅっとなる。
鳴海城下の港は、いまや狂犬堂の商船団が常に停泊し、荷が動き、人が動く。尾張の港町が、ここまで“仕事の匂い”をさせる時代が来るなんて――古い商人が見たら、泣くか笑うか、どっちかだろう。
けれど今日は、その港が「戦の港」だった。
本日、全軍出陣。西国――下関・彦島へ。
「……よし、綱の結び、そこ甘い。冬は指が言うこと聞かん。だからこそ、目で締めろ」
軍船の甲板に上がり、最終確認をしているのは、狂犬堂海軍大将・九鬼嘉隆。
荒波と商いの両方を知っている男は、怒鳴らない。淡々としているのに、言葉が刺さる。
「火薬樽、封は二重。潮に濡れたら終いや。
灯りは分けろ、松明を一箇所に寄せるな。
……ほら、そこ。櫓の柄の油が薄い。手が割れるぞ。塗れ」
水軍衆が「はっ」と短く返し、走る。
人が動く。船が動く。縄も樽も櫓も、全部が「間に合え」と言っているように見えた。
港の外れには忠魂碑がある。
この碑の前だけ、鳴海がどれだけ賑やかになっても、空気が重い。新しい町の浮つきが、ここだけは寄りつけない。
その忠魂碑の前に、出陣の列ができていた。
甲冑の擦れる音、息の白さ、馬の鼻息。
誰も余計なことを言わない。言えば揺れると、みんな分かっている。
そして――その中心に、狂犬お市様が立っていた。
年末年始の熱田は狂乱だった。あの生足だの、熊だの、暗殺だの、客が一万人だの――書けば胃がきりがない。
でも今日のお市様は、あの狂騒をまるで“昨日の稽古”だったみたいに、顔に残していなかった。
静かに手を合わせる。
それだけで、港の音がひとつ減る。
祈り終えると、お市様は列へ戻り、乗船する一人一人に声をかけていった。握手――狂犬堂の流儀で言えば、契りだ。
「……無事に渡れ。焦るな。潮は急ぐほど牙を出す」
「心得ました」
短い会話が、次々と交わされる。
大声は要らない。ここにいる者は、腹で分かっている。
そして、お市様は最後に真理姫のところで足を止めた。
真理姫は、武田の姫。礼法も勉学も、姫としての矜持も、きちんと背負っている。
けれど、鳴海に来てから“狂犬病”に感染した。――いや、感染という言い方が正しいのかどうか。少なくとも、目が以前よりずっと前を向いている。
「真理。準備はよいか」
「はい、母上様」
“母上様”が、まだ少し照れ臭い声音だった。
お市様は、わざと意地悪く笑う。
「よい返事じゃ。だが、よいか。怖いと思うたら、怖いと言え」
真理姫は一瞬だけ瞬きをしてから、まっすぐ頷いた。
「……はい。怖いです。でも、逃げません」
「それでよい。怖さは目になる。目を捨てるな」
横で、真理姫の手が少し震えているのを、桃は見た。
そして、その震えを隠そうとしないのが、どこか強く見えた。
お市様が真理姫の手を握り、いよいよ二人で乗ろうとした――その時だった。
人の列が、ふっと割れる。
「わしも行くぞ」
渋い声。
振り向けば、そこに一人の老人が立っていた。武田信虎。
そして左右に、子が二人。虎春十二歳、小虎十一歳。冬の風に頬を赤くしながらも、目は必死に前を見ていた。
港の空気が、一段沈む。
“武田信虎”という名は、武田の中でただの老人ではない。火のついた薪みたいに、近づけば熱い。
信虎は胸を張り、はっきり言い切った。
「武田が義で戦するのであれば、わしが黙っておるのは、おかしかろう。
この義理は、わしが作った義理じゃ。行かせてもらうぞ。武田じゃし」
最後の「武田じゃし」が、妙に人間臭い。
それが逆に、言葉の芯を太くする。
誰かが止めるより先に、お市様が動いた。
お市様はニタニタしていた。悪い顔だ。だが、嬉しそうでもある。
お市様は信虎の手をぎゅっと握った。握り返した信虎の骨ばった手が、年輪そのものみたいだった。
「痛み入ります、信虎様。共に参りましょう」
信虎の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
虎春と小虎が、こくりと頭を下げた。礼法が身に付いている。武田の子だ。
お市様は二人に視線を落とすと、声を落として言った。
「虎春、小虎。寒いか」
虎春が小さく頷く。小虎は唇を噛んで、頷けずにいた。
お市様は笑った。
それは舞台の笑顔じゃない。診療所で子を安心させる時の笑い方だった。
「寒いのも、怖いのも、悪ではない。
しがみつけ。生きて帰れば、寒さも怖さも、強さになる」
信虎が鼻で笑う。
「甘いこと言いおる」
「甘いのは堺の砂糖じゃ。わらわは塩じゃ」
「ふん。尾張の女は口が回る」
「回る口がないと、天下は回らぬ」
桃が思わず腹を押さえた。
この緊張の場で、会話の手触りを“生”に戻す人がいる。それが狂犬お市様だ。胃には悪いが、心には効く。
九鬼嘉隆が、甲板から手を上げた。
「出航――!」
綱が外され、船がゆっくり港を離れていく。
冬の潮が船腹を叩く音が、鼓動に似て聞こえた。
お市様は、忠魂碑の方を一度だけ振り返る。
目は静かで、笑っていない。だが、迷いもない。
「行くぞ。義の海じゃ。溺れるなよ」
返事は派手ではない。
けれど全員が、腹で頷いた。
船は、鳴海の港を離れ、冬の海へ滑り込んでいった。
西国へ。関門へ。
そして、まだ名もない大戦の入り口へ。
祐筆・桃の日記(狂犬記)
西暦1556年1月10日 弘治二年正月十日 夜
今日、全軍が出た。港は冷たかった。忠魂碑の前は、いつも以上に冷たかった。
九鬼様が甲板で最終確認している姿は、商いの段取りというより、戦の神事みたいだった。縄一本の結びで、生死が変わるのが海だ。
姫様は一人一人と握手して、言葉は短いのに、全部「生きて帰れ」って言っているみたいだった。
真理姫様が「怖い」と言えたのが、私は少し救いだった。怖いと言える人は、前を見ている。姫様の「怖さは目になる」は、きっと本当だと思う。
そして信虎様が来た。虎春様と小虎様まで。
「武田じゃし」が、変に可笑しいのに、胸が詰まった。義は若い人だけのものじゃない。年寄りが背負うと、根が太くなる。
私は祐筆だから、今日をちゃんと書く。
帰還の日も、同じ手で書けますように。
……胃だけは先に帰ってきてほしい。これは切実。




