第26話 狂犬お市様の尾張伝説の狂犬ライブ二日目 午前講演
天文十六年(西暦一五四七年)初夏・八月九日 尾張の伝説の二日目
尾張国・熱田 熱田神宮盆踊り夏祭り大会/特設野外ステージ
私は丹羽長秀。通称、五郎又。
「二つ名は米五郎又」とも呼ばれる。米を数えさせたら尾張一、という、ありがたいのか地味なのか分からぬ異名である。
そして今――私は、胃が痛い。
戦の矢傷ではない。もっと厄介なやつだ。黒圧である。
「五郎又」
背後から刺さる声。
振り返らずとも分かる。織田信長様だ。
「はっ」
「熱田が、うるさいそうだな」
「……はっ」
「妹が、何をしでかしておるか――見てこい」
“見てこい”と言いつつ、目が笑っていない。
これが黒圧。胃がシクシクする。
「承知いたしました……!」
私は深々と頭を下げた。
その瞬間、胃が「やめろ」と言った。
胃って喋るんだな、と思った。
信長様は続ける。
「ついでに、狂犬堂の胃薬。効くらしいな」
「……はっ、効くと噂で」
「買ってこい。城に置く」
「かしこまりました!」
胃薬購入が公務になった。
尾張、進み過ぎである。
■熱田へ:人の波は城壁より厚い
熱田に着いた瞬間、私は悟った。
「……何だこれは」
道が埋まっている。
人、人、人。尾張の人波。伊勢っぽい訛り。三河っぽい喧嘩口調。
子供は煎餅を片手に走り回り、女衆は団子をほおばり、男衆はやたらと身だしなみを整えている。
しかも、全員の目的が同じ。
「姫様の午前講演じゃ!」
「二日目やぞ、二日目!」
「昨日の午後で胃が死んだ! でも来た!」
「狂犬堂の胃薬買っとけ!」
「笑顔ゼロ文や!」
……最後、誰が言い出した。
私は群衆に揉まれ、胃を押さえながら前進する。
ここで胃が痛いと言って倒れたら、信長様の胃がもっと痛くなる。
だから倒れない。私は米五郎又である。米は数えるが、空気は読まぬときもある。
■狂犬堂:戦場(ただし敵は客)
狂犬堂に着くと、店の前に立て札がある。
本日も狂犬ライブ
午前・午後
笑顔ゼロ文
子供、煎餅無料
胃薬、品切れ注意
(※字が達筆すぎて怖い)
誰が書いたかは分かる。
分かりたくないが分かる。
店内は、戦場だった。
客が敵じゃないのに戦場。すごい世界だ。
「いらっしゃいませぇぇぇ!」
「化粧水はこちらですぅぅ!」
「胃薬はお一人一包までぇぇ!」
「反物は寧々様担当の札のところですぅぅ!」
「笑顔ですぅぅ!笑顔ぉぉ!」
笑顔が商品みたいになっている。
奥から声が飛ぶ。
「笑顔!笑顔はただじゃ!」
「笑顔ゼロ文か!」
……出た。狂犬の号令。
店員の笑顔が一段階明るくなる。目が死んでいる。口角だけが生きている。
教育、怖い。
私はレジへ滑り込む。
「すまぬ。胃薬を――」
「はい!胃薬ですね!本日はお一人様一包まで!」
「一包……?」
「昨日、買い占めが出ましたので!」
「胃薬を買い占め……尾張の男は……」
「はい!尾張の男衆は胃が弱いので!」
「否定できぬ!」
私は一包を握りしめる。
すでに効いた気がする。気がするだけだ。胃は現実を知っている。
「よし……これで観察任務ができる……」
そう思った時。
「丹羽様?」
売り子が私の顔を覗き込んだ。
「……うむ」
「昨日、姫様が“信長兄上の家臣の顔、覚えた”って言ってました!」
「は?」
覚えるな。
怖い。狂犬は人の顔を名簿みたいに覚える。
私は胃薬を飲み込み、そそくさと会場へ向かった。
■会場:午前講演、始まる前から地鳴り
特設野外ステージ。
すでに人が詰まっている。昨日より多い気がする。いや、絶対に多い。
篝火が昼間から焚かれている。暑い。
なのに群衆は喜ぶ。
「篝火があると伝説っぽい!」
「尾張は伝説を食う!」
「胃薬も食う!」
誰だ、最後。
いや、私だ。心の声が漏れた。
周辺には誘導係がいる。動きが軍隊。
武士ではないが、統率がある。
「押さぬ!走らぬ!転ぶな!」
「子供は前へ!老人は右へ!」
「笑顔はゼロ文!」
……またそれ。
尾張全体が狂犬化している。
私は信長様の言葉を思い出す。
「妹が何をしでかしておるか、見てこい」
見ている。
もう十分見えている。
胃が痛い。
■そして――丹羽長秀、たがが外れる
音が止んだ。
ざわめきが、すうっと引く。
「来るぞ……」
「姫様来るぞ……」
「香りがする……“お市”だ……」
香りで分かるのか。尾張よ。
そして――現れた。
狂犬お市様。
世界一の美貌。
ハイブランドの香水“お市”。
甘美で、危険で、胃に来る美人。ガツンと来る。
私は観察しようとした。
冷静に、冷静に、米五郎又らしく――
「……無理だ」
観衆の熱が、腹に落ちてくる。
姫様が三味線を構えた瞬間――
――ジャァァン!!
腹に響いた。太鼓より腹に来る。
そして何故か、私の胸の奥の黒圧が、ぷちんと切れた。
「……あ?」
拳が握られる。
喉が勝手に開く。
声が出る。出てしまう。
「うぉーーーーーー!!!!!」
私は叫んだ。
信長様の黒圧。日頃の胃痛。書類地獄。会議の空気。
全部、吹き飛んだ。
私は拳を握りしめ、絶叫し、
「俺たちの尾張ーーーー!!!!!」
熱唱した。
なぜ歌になったか分からない。
だが群衆が反応する。
「五郎又!いけぇぇ!」
「誰だあの武士!ノリがいいぞ!」
「米五郎又だ!」
「米ぇぇぇ!」
……誰が私の二つ名を叫んだ。
尾張の情報網、怖すぎる。
私は、叫び、拳を振り上げ、満足してしまった。
不思議なことが起きた。
胃が、痛くない。
「……え?」
私は腹を押さえた。痛くない。
胃が静かだ。内乱が治まった。
つまり――
「これが……目的か?」
私は呟いた。
狂犬お市様が、遠くからこちらを見た気がした。
そして、口元だけで笑った気がした。
「……やっぱり目的か!」
会場がさらに沸く。
姫様が一言、投げる。
「笑顔じゃ!」
観衆「うおおおおおお!!」
私は、気づいた。
笑顔はゼロ文だが――胃痛には効く。
狂犬、恐ろしい。生活に効く。
■丹羽長秀、任務を思い出す(遅い)
私はハッと我に返った。
「……観察!」
そうだ、私は観察に来たのだ。
だが観察というより参加してしまった。
しかも胃が治った。これは報告すべきか?
信長様に「ライブで叫んだら胃が治りました」と言っていいのか?
……言ったら殺される。胃が死ぬ。
私は筆を取り出し、震える手でメモを始めた。
人数:多い。昨日より多い(体感)
篝火:昼でも焚く(伝説感)
お市様:香りが武器
三味線:腹に落ちる
観衆:統率がある(怖い)
俺:叫んだ(書くな)
最後は塗り潰した。
◉狂犬記/作者:桃(感想と日記)
天文十六年 八月九日 初夏
二日目午前。丹羽長秀様(五郎又)が来た。
監視役だと聞いたが、途中から完全に客になっていた。
しかも叫んでいた。「俺たちの尾張」と熱唱していた。
何故かそれで胃が治ったらしい。
姫様はそれを見てニヤッとしていた。
姫様、もしかして“尾張の男の胃”をライブで治療しているのでは?
医師として天才すぎて怖い。
なお私は胃が痛い。今日も。




