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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第277話 「狂犬式、湯気と不安」

西暦1556年1月7日(弘治二年〔だいたい〕正月七日)

尾張国・鳴海城

鳴海城の冬は、静かなようで静かではない。

外は霜で白いのに、城の中は人の気配と熱で満ちている。

出陣まで、あと三日。

彦島へ向かう本隊は、紀州の下津で雑賀・根来を乗せ、関門へ渡海する予定だ。

準備は整っていく。整っていくほど、胸の奥がざわつく。

お市様の私室は相変わらず質素で、狼の寝床と、モモンガ桃の小さな巣箱があるくらいだ。

蝦夷狼の雄・銀は、部屋の隅で伏せ、雌の雪とつららは、真理姫の動きに合わせて耳だけぴくりと動かしている。

彼らは吠えない。吠えないまま、見ている。警護というより、家族の目だ。

その部屋の真ん中で、真理姫が津軽三味線を構えていた。

「右手が硬い。もう少し、指先で弾け」

お市様が後ろから、真理姫の肘をちょんと押す。

「こ、こうですか、母上様」

「そうじゃ。……うむ。今のはよい。

ただし、音に遠慮するな。お前が音を制するのだ」

真理姫の頬が、ぱっと紅くなる。

正月の熱田コンサートで、完全に“狂犬病”に感染してしまった顔だ。

「真理、天下無双の姫武者になりたいのです。

三味線も、弓も、剣も……全部、母上様みたいに」

「欲張りめ」

お市様は笑いながらも、目は真剣だ。

「よいか。天下無双になりたいなら、まず“続ける”ことじゃ。

気合いは三日で尽きる。習いは三月で身につく。

だが、身に刻むには三年いる」

「……三年」

「三年生き残れ。

戦場に行くのはその後でも遅くない」

真理姫は、三味線の胴を抱く腕に、ぎゅっと力を入れた。

生き残る。言葉にすると簡単なのに、重い。

部屋の外、廊下の向こうから、馬のいななきが聞こえる。

勝頼が騎馬鍛練にさらに熱を上げているのだろう。

「勝頼は、今日も飛ばしておるな」

お市様が呟くと、真理姫は小さく笑った。

「勝頼兄上、母上様に褒められたいのです。

昨日も、馬を降りた瞬間に『見ておったか!?』って……」

「子犬か」

「子犬です」

二人の会話に、雪が「ふっ」と鼻を鳴らした。

つららは大きく欠伸をし、銀はじっと扉を見ている。

狼たちは、笑いがわかっている顔だ。

そこへ、真田幸隆が顔を覗かせた。

細い目が、さらに細くなる。

「姫様。勝頼様、良うございますなぁ。

馬上の腰が、ようやく落ち着いてきました」

「そなたが甘やかすからじゃ」

「甘やかしてはおりませぬ。

ただ、芽が伸びるのを見るのは……愉しゅうて」

老獪なはずの軍師が、祖父の顔をする。

鳴海城は戦の城でありながら、奇妙に“家”の匂いが濃い。

一方で、氏規は氏規で、別の熱に浮かされていた。

庭先の廊下を行き来しながら、ぶつぶつと兵学書を暗唱している。

声に出すのが大事だと信じて疑わない。

それを聞いて桃が、遠い目をしていた。

「……氏規様、夜もぶつぶつです。

寝言も兵法です。胃が痛いです」

「桃、胃が痛いのは平常運転じゃろ」

寧々が冷静に突っ込む。

「寧々様、そこは慰めてください」

「慰めるほどの余裕はありません」

容赦がない。鳴海の日常だ。

昼、評定の間では武田義信が赤備の訓練を見て回っていた。

武田信虎――兵学の師と称される老将が、現地指導をしている。

“火力を入れる”だの、“隊の回転を上げる”だの、物騒で元気な老人談義が飛び交っていた。

「義信殿、赤備は“赤”で揃えるだけではない。

足を揃え、息を揃え、迷いを揃えるのだ」

「……迷いを、揃える」

「迷いがばらけるから、隊が割れる。

割れたところに敵の牙が入る。

よいか、赤は色ではない。覚悟の印だ」

義信は唇を引き結び、深く頷いた。

そして、その覚悟は城全体へと波紋のように広がっていく。

出陣が近づくにつれて、人は浮つく。

浮つくのを押さえるために、人は熱中する。

稽古、訓練、暗唱、鍛練。

狂犬病極まれり――桃が言い切ったのも、あながち誇張ではない。

夜。

鳴海城の湯殿には、湯気が白く立ちこめていた。

木の香りと、髪石鹸の甘い匂いが混じる。

真理姫が湯に入りながら、そっと息を吐く。

昼の熱が抜け、今さら心が追いついてきたみたいに、胸が苦しい。

お市様が湯殿に入ってくる。

戦場の女。天下の狂犬。

なのに、湯気の中だと、ただの“母”にも見えるから不思議だ。

「真理、背を出せ」

「は、はい」

真理姫はお市様の背中を流しながら、思わず見入ってしまう。

引き締まった肩。背中に大きな傷はない。

けれど肩口や胸元に、細い傷が幾つかある。

利家と慶次が語った戦の話が、頭の中で勝手に補完される。

「母上様……痛かったですか」

お市様は湯を手ですくい、肩にかけた。

「痛いか痛くないかで言えば、痛い。

だが、痛いから止めるほど、世は優しくない」

「……母上様は、怖いです」

「ほう」

「でも……優しいです」

お市様は笑った。湯気越しの笑みが、妙に眩しい。

「怖くて優しいのが、母じゃ。

戦場に出るなら、なおさらな」

真理姫の喉が鳴る。

不安と希望が、湯の中でゆらゆら混ざる。

今度はお市様が、真理姫の髪を洗い始めた。

狂犬堂の髪石鹸を泡立てると、香りがふわりと広がる。

「真理の髪は美しいな」

「……母上様の方が美しいです」

「当然じゃ。世界一だからな」

即答。ぶれない。

真理姫は思わず笑い、笑った途端に胸がきゅっと痛んだ。

「母上様。あと三日で……」

言いかけて、言葉が詰まる。

“戦場”の二文字が、舌に貼りつく。

お市様は泡を流しながら、真理姫の頭をぽん、と撫でた。

「不安か」

「……はい」

「なら、よい。

不安がある者は、周りを見る。

周りを見る者は、生き残る」

「……私、生き残れますか」

お市様の手が止まる。

その一瞬の静けさが、真理姫の心臓を掴む。

「生き残らせる。

わらわが母だからな」

真理姫の目の奥が熱くなる。

泣くのは嫌だ。姫武者になりたいのに。

けれど、涙は勝手に滲む。

お市様は、それを咎めない。

ただ、湯気の中で、真理姫の肩を抱いた。

外では、風が鳴っている。

冬は冷たい。

それでも鳴海城の中だけは、妙に温かい。

出陣まで、あと三日。

祐筆・桃の日記(狂犬記)

西暦1556年1月7日 弘治二年だいたい正月七日 夜

今日の鳴海城は、狂犬病がさらに進行した。

真理姫様は三味線に本気になり、勝頼様は騎馬で本気になり、氏規様は兵学をぶつぶつ暗唱して本気になり、私はそれを聞いて胃が本気で痛くなった。

姫様は真理姫様に稽古をつけながら、ちゃんと“生き残れ”と言われた。

あれは命令ではなく、約束の言い方だと思う。

姫様は狂犬で、母で、そして時々、人の心の急所を外さない。

夜、湯殿の前を通ったら、真理姫様の声が少し震えていた。

出陣前に不安が出るのは当然だ。

不安があるから、守りたいものがはっきりする。

あと三日で本隊が出る。

私は記録を整え、薬と包帯を数え直した。

胃は痛いが、手は止めない。

狂犬の背中を支えるのが祐筆の仕事だから。

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