第276話 「潮騒の出陣」
西暦1556年1月6日(弘治二年〔だいたい〕正月六日)
尾張国・鳴海城下港
冬の朝の港は、白い。
吐く息も、潮煙も、帆の縁も、みな白く滲んでいる。
けれど港そのものは、熱を帯びていた。
鳴海城下の港に、狂犬堂商船団がずらりと停泊している。太い腹をした輸送船、足の速い小早舟、火縄銃を積む専用船。船腹には狂犬の旗が翻り、甲板には武将と兵の影が重なっていた。
今朝、彦島へ向けて補給物資と第二波の兵団が出る。
前田利家、前田慶次、柴田権六勝家、滝川一益、佐々成政。
そして新兵千五百、火縄銃兵団三百、新兵器百。
鳴海から下関・彦島までは、潮と風が味方すれば八日。
普通で十日から十二日。
冬の海は甘くない。だが、今は待っている暇もない。
彦島では、松平元康が火ノ山に灯を上げ、藤吉郎が商館と調略を回している。
そこへ武を加える。
狂犬は、商いだけではない。牙も出す。
甲板へ続く桟橋の上で、お市様は一人一人と握手していた。
深紅ではなく、今日は凛とした白の狂犬織。
冬空の下で、その白はやけに映える。
「死ぬなよ」
短い。けれど重い。
握手を受けた若い兵が、涙ぐみながら頷く。
「は、はい!」
「無理に強くならんでよい。生きて帰ってこい。
生きて帰れば、いくらでも強くしてやる」
「はっ!」
次の兵へ。
手は冷たいのに、握る力は温かい。
寧々が横で、静かに人数を数えている。桃は後ろで記録を取りつつ、胃を押さえていた。
千五百の命。三百の銃。百の新兵器。数字で書けば簡単だが、現実は重い。
「姫様、全員と握手なさるのですか」
桃が小声で問うと、お市様は当然のように返す。
「当然じゃ。
わらわの旗の下で死ぬかもしれぬ者たちだぞ」
「……胃が痛くなります」
「桃はすぐ胃を痛めるな。強くなれ」
「姫様のせいです」
「誉め言葉か?」
「違います」
横で寧々が小さく吹き出す。
こんな朝でも、いつもの調子がある。それだけで救われる。
利家が最後尾で待っていた。鎧姿、朱槍はまだ背負わず、甲板へ上げてある。
その隣に、まつが立っている。今日は涙を見せないと決めた顔だ。
お市様が利家の前に立つ。
「利家」
「はっ」
「祝言は、いつじゃ?」
港の空気が一瞬、止まる。
利家が一拍遅れて瞬きをした。
「……は?」
「蝦夷から帰ったらあげる、と言っておったではないか。
根性なしの利家」
ざわ、と周囲がどよめく。
慶次が即座に噛みついた。
「姫様、出陣前に爆弾投げるのやめてもろて」
「爆弾ではない。約束確認じゃ」
まつの頬が赤い。けれど、目は逸らさない。
「……姫様」
「なんじゃ」
「利家様は、必ず帰ってきます」
まつの声は震えていない。
その静かな強さに、利家の方が視線を泳がせる。
「帰ってきたら、逃げるなよ、利家」
「に、逃げません!」
「本当か?」
「……たぶん」
「弱い!」
慶次が腹を抱えて笑う。
「ははは! 利家、槍は強いのに心は豆腐やな!」
「慶次、黙れ!」
「関門で魚釣りしようや、景虎姉上と。
利家の恋話でも餌にして」
そこへ、長尾景虎が静かに近づく。白銀の鎧に、冷たい朝の光が宿る。
「慶次。
わらわは釣りは好むが、他人の恋は餌にせぬ」
「……姉上、真面目すぎ」
景虎は利家を見つめる。
「生きて戻れ。
義妹の顔を曇らせるな」
「……はっ」
お市様が最後に利家の手を握る。
ほんの一瞬、指先が強く絡む。
「死ぬな。
まつを泣かせるな。
帰ってきたら、祝言は盛大にやる。狂犬堂総出でな」
「……はい」
「それと」
「まだありますか」
「彦島で勝家に推し活させるな。仕事させよ」
遠くで勝家がむせた。
「姫様!? わ、私は常に職務優先です!」
「うそをつけ」
港に笑いが広がる。
緊張が、ほんの少しだけほどける。
太鼓が鳴る。
出航の合図だ。
船がゆっくりと岸を離れる。帆が風を受け、船腹が軋む。
千五百の足音が、板の上で重なる。
まつが手を振る。
寧々は目を閉じて祈る。
桃は記録帳を握りしめる。
お市様は、動かない。
ただ、真っ直ぐ前を見ている。
旗が風に鳴る。
「行け」
小さな声。けれど、潮よりも強い。
船団が水平線へと溶けていく。
白い息が、朝日に透ける。
鳴海港に残ったのは、静寂と、わずかな潮騒だけだった。
お市様は、ふっと息を吐く。
「……さて」
「さて、とは」
桃が警戒する。
「次は、商いじゃ。
兵を送った分、銭を稼がねばな」
「やっぱりそうなりますよね」
「当然じゃ」
寧々が肩を竦める。
「姫様、少しは寂しがってくださいませ」
「寂しいぞ」
「顔に出ておりません」
「出すものか」
ほんの一瞬、景虎がその横顔を見る。
白い息の奥で、瞳だけが揺れていた。
だが、すぐにいつもの顔へ戻る。
狂犬は、涙を港に落とさない。
祐筆・桃の日記(狂犬記)
西暦1556年1月6日 弘治二年正月六日 夜
今朝、彦島へ第二波が出陣した。
千五百の兵、三百の火縄銃、百の新兵器。
数字は整然としているのに、実際の見送りは整然としていない。心が追いつかない。
姫様は全員と握手された。
冷たい朝なのに、手だけは温かい。兵たちの目が変わる瞬間を、何度も見た。
利家様とまつ様の祝言の話を、出陣前に持ち出すあたりが、姫様らしい。
場を軽くしながら、覚悟を固めさせる。
あれは、優しさだと思う。たぶん。
船が遠ざかるのを見ながら、私は胃が痛かった。
姫様は平然としているようで、ほんの一瞬だけ、目が揺れた。
狂犬は泣かない。
でも、きっと、誰よりも深く背負っている。
私は今日も記録を書く。
生きて帰ってくる場所を、ちゃんと残すために。




