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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第275話 「火ノ山の灯」

西暦1556年1月5日(弘治二年〔だいたい〕正月五日)

長門国・下関 火ノ山城/関門海峡

関門の朝は、冷たい。

潮の匂いが鼻の奥に刺さり、息は白く、声は短くなる。けれど――海は嘘をつかない。流れ、波、船影、鳥の群れ。すべてが「今」を教えてくれる。

火ノ山城は、その「今」を見下ろすためにある。

彦島では狂犬堂商館(彦島城)が建ち、上げ下ろし橋で赤間関へ渡れるようになった。商いの旗を掲げ、人と物と銭を集めるのは藤吉郎の仕事。

しかし、商いだけでは海峡は押さえられない。関門は、船が通る喉元だ。毛利が手を伸ばすのも、刺客が紛れ込むのも、海賊が湧くのも、全部ここだ。

だから――「目」がいる。高いところから海を見張る目。合図を上げる目。守る意思を示す目。

その役目を、今日も背負っているのが、松平元康と酒井忠次、そして旗本先手役二百。

元康は握り飯を片手に、石垣の上で海を見ていた。焼いた海苔もない、塩も控えめ。冷えて硬い。でも、腹に落ちるだけでありがたい。

隣の忠次も同じ顔で、同じように噛んでいる。二人とも、夜は短い。土木と警戒で、眠りは削られっぱなしだ。

「……忠次。わしら、便利すぎやせんか」

元康がぼそっと漏らすと、忠次は平然と返した。

「今さらでございます。便利で強い。最悪です」

「最悪言うな」

「褒めております」

「褒め方が雑!」

元康は鼻で笑った。笑えるうちが、まだ大丈夫だ。

城の下では、先手役が黙々と動いている。杭を打つ者、縄を張る者、石を運ぶ者。野戦築城の手つきは早い。狂犬家臣団の何でも役――その言葉が、誇りなのか呪いなのか、元康自身も分からない時がある。

「東で戦がある言われたら、命省みず野戦築城。槍持てば前へ。

南で農民が餓える聞いたら、畑を一緒に耕す。女や子供が売られんように、唐芋植えて焼酎の原料まで増やす。

北で人食い熊が出る言うたら、函館で港町と温泉町……蝦夷鹿とヒグマ狩り。

西で名門が風前の灯や言うたら、姫様助けに走る。

……なんやこれ。職務範囲、地球儀か?」

忠次が淡々と頷く。

「姫様の命は、地図をはみ出します」

「はみ出すな。戻ってこい」

「戻りません。姫様ですから」

元康は握り飯をもう一口。

そして、胸の奥で一番痛いところ――胃のあたりを、ふっと意識する。こういう時、胃は正直だ。無理と恐怖と責任を、一番先に知らせてくる。

「……自画自賛でもせんと、胃がつぶれる」

「殿、胃がつぶれる前に寝てください」

「寝れるか」

「寝ないと死にます」

「死んだら姫様に怒られるな」

「怒られます。死んでからも怒られます」

「理不尽!」

笑いが短く弾け、すぐに風で散る。

元康は海峡の向こう、門司の岸を見た。

船が通る。潮が走る。ここは戦場の入口で、商いの入口でもある。火ノ山を押さえれば、入口に鍵がかかる。

そして、その鍵が――「灯」だ。

狼煙台、いや灯台の骨格は、すでに組まれていた。油壺、乾いた薪、火口ほくち

合図のためだけではない。ここに火が上がるということは、海峡に向けて宣言するということだ。

――ここは、狂犬が見ている。

――ここは、狂犬が守る。

元康は立ち上がり、先手役を見回した。二百の顔は、泥と汗と寒さの顔。それでも目は生きている。

「みな」

声は大きくないのに、よく通る。

風が強いせいで、言葉はかえって締まって聞こえた。

「この城は石と木でできとるんやない。

みなの手と、我慢でできとる」

誰かが、短く息を呑んだ。

元康は続ける。

「さあ、灯台に火をつけよ。

これはただの火やない。みなの、希望の火だ。絶やしてはならぬ」

忠次が、横で小さく突っ込む。

「殿、格好つけすぎです」

元康は小声で返す。

「正月や。格好つけさせろ。胃のためや」

「胃、万能ですね」

「万能や。胃は全部知っとる」

先手役が火口を運び、火を入れる。

ぱち、と乾いた音がして、薪が息をし始める。

小さな火が、風に煽られて揺れながらも、消えずに育っていく。

火が上がった瞬間、海峡の空気が変わったように感じた。

下の浜で漁師が手を止め、赤間関の町でも顔を上げる者がいる。彦島の畑でも、鍬が一瞬止まる。

「……火が、上がったぞ」

「狂犬が来た、っちゅうことか」

「来たいうより……居座った、やな」

「居座るな言うな。守ってくれるなら、居座ってくれ」

そんな声が、潮風に混じって聞こえる気がする。

不安と期待が混ざった声だ。今の西国に、一番多い声でもある。

元康は火を見上げ、ゆっくり息を吐いた。白い息が、灯に引かれるように流れる。

「忠次」

「はい」

「守るってのは、槍だけやないな」

忠次は一拍置いて頷いた。

「……見張るだけで救われる者もおります」

元康は握り飯を最後まで食べきった。

冷たい米が、胃に落ちる。痛いのに、どこか落ち着く。

火ノ山の灯は、今日から消してはいけない火になった。

「よし。次は石垣をもう一段。鉄砲座も増やす。狼煙台は二つ目も用意や。

海は広い。目は多いほどええ」

忠次が頷く。

「承知。……殿、昼は少し寝てください」

「寝れるか」

「寝ます。命令です」

「誰が殿やねん」

「私です。今だけ」

「生意気!」

元康が笑うと、周りの先手役も小さく笑った。

笑えるうちは、まだ火は消えない。

火が消えなければ、人の心も消えにくい。

火ノ山の上で燃える灯は、海峡に向けた合図であり、誓いであり、そして――

時代に足掻く者たちの、ささやかな勝利の証だった。

祐筆・桃の日記(狂犬記)

西暦1556年1月5日 弘治二年だいたい正月五日 夜

火ノ山に灯が上がったと報せが入った。

彦島の商館や赤間関の町づくりは、目に見える形で伸びていくけれど、火ノ山の灯は「形」より先に、人の心を押さえるのだと思う。

松平元康様と酒井忠次様、そして旗本先手役二百。

この人たちは、姫様の「次の手」を現場で形にしている。土を運び、杭を打ち、寒さで手がかじかんでも火を守る。

便利すぎて胃が痛い、と元康様は言うらしい。

……分かる。私も同じく、便利すぎて胃が痛い。狂犬家臣団の胃は、たぶん同盟を結んでいる。

それでも、火が上がった。

見張る者がいる、守る者がいる、と海峡に知らせる火。

人は火を見ると、少しだけ前を向ける。

正月なのに忙しい、という愚痴は山ほどある。

でも、火ノ山の灯が消えない限り、私の胃も――きっと、まだ耐えられる。

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