第273話 「正月二日、魔神酒と南蛮イケメン」
西暦1556年1月2日
弘治二年正月二日
尾張国・熱田/狂犬堂本店〜鳴海城下
――背景(熱田が“休まない町”になった理由)
年越しの熱田は、もはや「正月は家で餅を焼く」町ではない。
狂犬堂が作った流通と雇用、そして“推し活”という新しい熱狂が、堺商人の鼻を利かせ、南蛮商人の足まで引き寄せた。
堺の大商人は口では言う。
「正月はお伊勢参りでな、商いは休みや」と。
だが帳簿は正直だ。熱田の銭の匂いは、参詣より強い。
そんな熱田の中心にいるのが――狂犬お市様。
そして今は、越後の龍・長尾景虎(女性)が隣にいる。
月下の誓いを結んだ義理姉妹。並び立つだけで場が締まる……はずなのに、当人同士の会話はだいたい軽い。
熱田神宮・戦勝祈願(戦ってないのに勝った宣言)
冬の朝の神宮は、空気が硬い。
白い息が、列になって上へ消える。
お市様は柏手を打ち、頭を下げた。
……真面目なのは、ここまで。
振り返った瞬間、もう笑っている。
「姉上、年越しコンサートは勝ちじゃ!」
景虎が淡々と返す。
「戦勝祈願の帰りに言う言葉ではない」
「勝ったものは勝ったのじゃ。券の売り上げ、過去最高じゃぞ?」
「それは戦ではなく商いだ」
「商いは戦じゃ!」
桃が後ろでうめいた。
「……正月二日から胃が痛い……」
利家が肩をすくめる。
「桃、いつも痛い」
「痛くない日があると思うか?」
慶次が笑って、景虎の方へ視線をやる。
「姉上様、止めてやってくださいよ」
景虎は首を傾げる。
「止まると思うか?」
「……ですよね」
誰も止めないまま、一行は狂犬堂本店の近くへ戻っていく。
参詣帰りの人波と露店の匂い、正月の甘酒の湯気。
熱田は相変わらず、休む気配がない。
曲がり角で「むに」(踏んだのは、正月の厄)
狂犬堂本店の裏手、曲がり角。
お市様の足裏が、妙な感触を拾った。
「むに」
お市様が固まる。
「……うわっ! やってしまったか! 正月早々……!」
桃が青ざめる。
「姫様、まさか……」
だがそこにあったのは、犬の落とし物でも、餅でもない。
倒れているのは――南蛮人。
顔は、妙に整っている。
だが口元からは、どう見ても汚物。
そして手には、狂犬堂の芋焼酎。
あの――姫様が遊び半分で作って売り出した、度の強い酒。
悪ノリで銘まで付けたやつ。
(※狂犬堂内では“魔神”と呼ばれている)
お市様が、半分あきれて、半分面白がって言った。
「魔神を飲んで倒れておる……魔神に負けた南蛮人じゃ」
慶次が覗き込み、真顔で。
「姫様、顔だけはイケメンっすね」
「南蛮基準の“イケメン”じゃろ。わらわは世界基準で一番の美人ぞ?」
張り合うところがそこ。
景虎は珍獣を見る目で南蛮人を眺めている。
「南蛮の者は、正月に地面で眠るのか……」
「熱田の正月は戦場じゃからな。地面は寝床じゃ」
利家が息を確認し、短く。
「息はある」
お市様が即断した。
「利家。診療所へ運べ」
「はっ」
南蛮人は鞄を抱いたまま、利家と慶次に担がれていく。
鞄だけは離さない。商人の執念が、酒より強い。
夜・南蛮人、起床(名前から胡散臭い)
夜。診療所の灯が落ち着く頃。
寝台の南蛮人が、うめき声を上げて目を開けた。
「……デマ・ボ・ロモーケ……」
かたことの日本語。
しかも、名が胡散臭い。
お市様は即座に切る。
「名からして嘘くさい」
南蛮人――ボロモーケは、胸を叩いた。
「ワタシ、商人デス。テン…サイ…デス」
「益々胡散臭い」
桃が額を押さえる。
「姫様、拾うものが正月から重い……」
八千代が鼻をつまんだ。
「……とにかく臭いので、お風呂へ」
お市様が手を振る。
「風呂じゃ。臭い契約は結ばぬ」
ボロモーケは風呂へ連れて行かれた。
石鹸と髭剃りに感動(狂犬堂の“日用品兵器”)
湯気の向こうから、妙に大きな声が聞こえる。
「オオ……! セッケン……! マホウ……!」
八千代が淡々と説明する。
「泡立てて洗うだけです」
「スゴイ……! ヒゲ、ソレル! カミソリ、スゴイ!」
「普通です」
戻ってきたボロモーケは、別人のように整っていた。
確かに顔は整っている。だが、目が商人の目だ。銭の光がある。
お市様は腕を組んで、面白がるように笑った。
「で。天才商人殿。何を売りに来た」
ボロモーケは胸を張り、かたことの日本語で勝負をかける。
「契約、しませんか? 私、天才的な商人です。大商人になるイケメンです」
景虎が小さく咳払いをした。
慶次は吹き出しそうになって顔を逸らす。
桃は胃がきゅっとなった。
お市様が乗る。
「イケメン? 南蛮基準でイケメンなのか?
わらわは、世界基準で一番の美人ぞ。張り合うなら、そこは譲らぬ」
「ワタシも、イケメン……!」
「おぬしは臭かった時点で負けじゃ」
「風呂、入った!」
「そういう問題ではない!」
利家が冷静に割って入る。
「姫様、話を進めましょう」
「うむ。商圏じゃ。言うてみよ」
ボロモーケは鞄を開けた。中身は、南蛮の品々。硝子瓶、香りの油、細工道具。
そして地図――海の道の線が、尾張よりずっと遠くへ伸びている。
「ワタシ、堺、博多、マカオ、ゴア、リスボン……知ってる。船、つながってる。
狂犬堂の石鹸、化粧品、酒……南蛮で売れる」
お市様の目が細くなる。
冗談の顔が、仕事の顔に切り替わる。
「……わらわの品を、南蛮へ流す、と」
「ハイ。アナタ、もっと儲かる。ワタシも儲かる」
「どれほど抜く」
ボロモーケが指を立てる。
「半分」
「却下」
速い。
「七三」
「却下」
「六四」
「却下」
景虎が静かに笑った。
「姉妹よ。交渉が早すぎる」
お市様はさらりと返す。
「わらわの商いは、命と銭を一緒に運ぶ。安売りはせぬ」
ボロモーケが汗をかき、言い直す。
「……八二」
「八がわらわか?」
「ハイ」
「なら、聞こう」
お市様が一歩近づく。
「契約に“義”はあるか。
狂犬堂の名を汚し、民を泣かせるなら、南蛮だろうが斬るぞ」
ボロモーケは一瞬、言葉を探した。
だが目は逸らさない。
「……ワタシ、ウソ嫌い。銭、好き。でも、信じられないと、商売できない。
アナタ、強い。だから、契約したい」
お市様はにこり、と笑った。
「胡散臭いが、嫌いではない」
桃が小声で呻く。
「……決まった……胃が……」
慶次が肩を叩く。
「桃、また時代が動くな」
景虎が窓の外――熱田の灯を見て言った。
「尾張の灯が、海を越える」
お市様が笑う。
「越えるのは灯だけではないぞ。
わらわの名も、三味線も、熊も……全部じゃ」
「最後のは要らない」
「姉上、熊は要る!」
誰も止めないまま、正月二日の夜は更けていった。
祐筆・桃の日記(正月二日)
西暦1556年1月2日 弘治二年正月二日 夜
熱田神宮へ戦勝祈願。
姫様は参拝の帰り道に「コンサートは勝ちじゃ」と言い切った。
景虎姉上は否定しない。龍は、流れに逆らわないらしい。
帰り道、姫様が「むに」と踏んだ。
正月の厄は足元にある。
倒れていたのは南蛮人で、手に姫様が遊び半分で作った芋焼酎“魔神”。
魔神に負けて吐いていた。正月から地獄絵図。
夜、南蛮人は起きて「デマ・ボ・ロモーケ」と名乗った。
名前が胡散臭い。本人も胡散臭い。
しかも「天才的な商人です。大商人になるイケメンです」と言った。
姫様が「わらわは世界基準で一番の美人ぞ」と張り合い始めた時、私は胃がきゅっと縮んだ。
しかし、ボロモーケは商圏の話を持っていた。
堺や博多だけではなく、海の向こうの線が地図に引かれていた。
姫様の目が仕事の目になった瞬間、私は分かった。
この胡散臭さは、使う気だ。
正月二日。
熱田は休まない。
姫様も休まない。
そして私の胃も、休まない。




