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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第267話 「熱田、年の瀬。鉄板と天運」

西暦1555年12月30日(弘治元年 十二月下旬)

尾張国・熱田/鳴海

熱田の年の瀬は、寒い。

だが――寒いだけで済む町では、もうなかった。

狂犬堂の大きな暖簾が揺れる熱田本店の前は、朝から人の波。

宿は満室、茶屋は臨時の釜、路地裏では団子の焼ける甘い匂いと、魚の干物の匂いがぶつかり合い、町全体が「明日」に向かって息を吐いていた。

明日。

熱田の野外劇場で、狂犬お市様の年末年始コンサートが開かれる。

「えらいこっちゃ……今年の熱田、堺より人おるんちゃう?」

露店の親父が白い息を吐く。

「知らんのか、兄ちゃん。堺は銭が回るが、熱田は“推し”が回るんや」

「何が推しや。信心か」

「信心と推しは同じや。財布が開く」

戦国の町で、妙に真理が刺さる会話が交わされていた。

南蛮商人までもが、ちゃっかり露店を広げている。

見慣れぬ香辛料の匂い、ガラス玉、布――そして、狂犬堂の化粧品を横に並べて「これは異国の光だ」と適当な口上をつける。

「それ、狂犬堂の“月下の白”じゃろ」

「シーッ。ミナサン、ロマン、スキ」

ロマンで買い物をさせる。

熱田は今、日の本で一番“うまい”町だった。

その裏側で、準備は戦だった。

寧々は店を従業員に任せ、衣装合わせで走り回る。

衣装箪笥を開けば、戦装束のように布が整然と並び、刺繍の金糸が灯りを返す。

「姫様、明日は“白”でいきます? 雪の女神でいきます?」

「白はええが、寧々。わらわ、雪の女神ちゃう。狂犬や」

「犬……白犬……」

「やめい。景虎姉上に殴られる」

寧々は真顔で頷いた。

銀龍ぎんりゅうにしましょう」

「意味が増えたぞ」

そんなふうに、笑いながらも、準備の手は止まらない。

まつは「親子丼まつや」の仕込みを必死に回している。

だしの香りが湯気に乗り、年の瀬の空腹を刺激する。

「明日は地獄や……今日のうちに、鶏を泣かすほど下ごしらえするで!」

「鶏に謝れ」

桃が言うと、まつは包丁を握ったままニヤリとした。

「謝る暇があったら刻むわ。ここは戦場や」

熱田の台所も、戦場だった。

警備はさらに本物の戦。

利家と慶次は、柴田権六勝家、滝川一益、佐々成政らと、新規採用の兵を主要地点へ散らしていた。

街道、野外劇場の周囲、屋根の上――視線が交差する場所を押さえ、同心の巡回も倍にする。

「慶次、そこは“見物人の顔”を見ろ。刀を見るな。顔が先や」

利家が低い声で言う。

「へいへい、わーっとる。人間は目が武器や。……お、あの爺さん、目が“推し”やな」

「何の判定だ」

「財布の開きが早い目しとる」

「そんな目があるか」

慶次が笑い、勝家が腕を組む。

「……お市様の舞台を守れるなら、わしは何でもやる」

「権六殿、怖いわ。熱田が震える」

滝川一益が、胃のあたりを押さえるように笑った。

「胃が震えるのは、わしだけで十分です」

警備は万全――のはずだった。

だが、鳴海奉行、火付盗賊改役の岡部元信のところに、一本の“違う風”が吹き込む。

報せを持ち込んだのは、鳴海同心・中村三郎。

伊勢が実家で、久しぶりに桑名へ帰り、酒を飲んだ夜の話だ。

岡部の詰所。

燭台の火が揺れ、畳に落ちる影が長い。

「……桑名の“狂犬病”で聞いた、とな」

岡部が言う。

「はっ。友と飲んでおりましたら、奥の席で……酔っぱらい二人と、身なりの良い武士が話しておりました」

中村は唾を飲む。

自分の言葉が、明日の熱田を変えるかもしれないと知っている顔だ。

「内容は」

「……狂犬お市様の暗殺計画。三好三人衆からの依頼だとか。火縄銃で――狙えるか、と」

言い終えた瞬間、部屋の空気が一段冷えた。

岡部は、即座に同心を集め、厳戒体制を敷いた。

そして、迷いなく、報告先を一つに絞る。

狂犬お市様。

熱田本店の奥。

衣装の布が積まれ、舞台の構図図が広げられ、明日の熱狂が“紙の上”で暴れている部屋。

お市は、報告を聞くと――笑った。

「三好が怒るのは分かる。毛利が怒るのも分かる。無税で民が動けば、戦では勝てぬからの」

岡部が膝を進める。

「……中止をご検討ください。命が最優先です。明日は、野外です。人混みは盾にもなるが、刃にもなります」

「岡部」

お市の声は柔らかい。だが、折れない。

「ファンは裏切れぬ」

岡部が言葉を失うと、寧々が横から刺す。

「姫様、そこ“恋文”みたいに言わんといてください。私は現場が死にます」

「恋文ではない。布告だ」

「余計に重い」

まつが奥から顔を出した。

「姫様、死んだら年越し丼が売れん。私が困る」

「商いの理由が雑すぎる」

桃が突っ込み、慶次が肩をすくめる。

「まぁまぁ。姫様は“天運”で生きとる。……だが今回は、相手が天運を邪魔しに来とる」

利家が真面目な顔をする。

「だからこそ、守る。守らせてください」

お市は一瞬だけ目を細め――それから、悪戯っぽく笑った。

「なら、死なぬようにする」

「……どうやって」

岡部が問うと、お市は平然と言った。

「胸に、ぶあつい鉄板を入れておこう」

その場の全員が一拍遅れて固まる。

「姫様……それ、衣装ですか? 鎧ですか?」

寧々が真顔で聞く。

「衣装じゃ。わらわ用の“着込み”じゃな」

お市は、机の端を指で叩いた。

「小一郎特製じゃ」

「小一郎……また変な物を作ったんですか」

桃が胃のあたりを押さえる。

「“鉄板入り舞台衣装”って、熱田の新名物になりますよ……」

岡部が低く言う。

「笑い事ではありません」

「笑えるうちは、勝てる」

お市は言い切った。

「天運あれば、お市は生きる。天運なければ、三好と毛利が笑うじゃろう」

その言葉は、気楽にも聞こえる。

だが、真逆だ。

死を軽く扱うことで、恐怖に主導権を渡さない。

狂犬お市の、いつものやり方だった。

岡部は、深く頭を下げる。

「……では、徹底します。屋根、土塀、林、露店の高台、全て。火付盗賊改の名にかけて」

「頼む」

お市は頷き、ふっと笑った。

「……明日は、熱田が一番熱い日じゃ。寒さで震えるな。熱狂で震えよ」

寧々がため息をつく。

「もう。姫様、口上が上手すぎて腹立つ」

「褒め言葉か」

「半分は」

その半分で、十分だった。

外では露店が増え続け、宿の灯りが増え続け、町の期待が膨らみ続ける。

誰もが“明日”を見ている。

だが、岡部だけは、違う場所を見ていた。

明日の“影”。

そして、その影を、今夜のうちに潰す方法。

年の瀬の熱田は、華やかで、危うい。

まるで、火花の散る鍛冶場のように。

狂犬お市は、その真ん中に立つ。

歌うために。

そして――生きるために。

祐筆・桃の日記

西暦1555年12月30日(弘治元年 十二月下旬)

今日は、熱田が“祭りの前夜”の顔をしていた。

人が多すぎて、道が狭くなった気がする。道が狭いんじゃない、人の熱が太いのだ。

寧々様は衣装合わせで戦をしている。まつ様は鶏に謝らず刻んでいる。

利家様と慶次様は警備で目が鋭い。権六様は、鋭いというより、もう“壁”だ。安心だけど怖い。

そして、岡部奉行から、最悪の報せが入った。

桑名の居酒屋で聞いた暗殺の話。酔っぱらいの口から、千貫とか二千貫とか、嫌な数字が出る。銭は便利だが、こういう時だけは毒だと思う。

私は内心で「中止にしてください」と叫んだのに、姫様は笑って言った。

「ファンは裏切れぬ」と。

あの言い方はずるい。正しいから、止められない。

さらに姫様は、胸に鉄板を入れると言った。

衣装なのか鎧なのか分からないが、姫様が言うと“いつもの無茶”に聞こえるのがもっと怖い。

小一郎殿が作る、と言った時点で、私は胃が決まった。悪い意味で。

でも、姫様が笑えるうちは、こちらも笑うしかない。

笑いながら、守るしかない。

明日は、熱田が燃える。

燃え方を間違えないように、私は筆を握る。

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