第262話 「博多の喉、菊の刃」
西暦1555年12月20日(弘治元年 十二月下旬)
筑前国・博多 博多福屋
博多は、冬でも止まらぬ。
唐船が入れば銭が動き、倭船が出れば噂が動く。
その中央に、狂犬堂がある。
堺、京と並ぶ三大拠点。
暖簾分け――百屋(百地家)、藤屋(藤林家)、福屋(服部家)。
表は化粧品、香油、薬種、織物。
裏は諜報、伝令、変装具、密約の場。
博多福屋は、今日も繁盛していた。
「“獄門の柚子”は一人一本まで! まとめ買いは怪しすぎるやろ!」
「その紅、殿方には似合わん! あ、いや、変装用なら止めんけど!」
店先で客をさばくのは、服部半蔵の娘、せつな。
忍びであり、商人であり、そして今は――看病人でもある。
二階の奥座敷。
炭火の匂いと、薬草の匂い。
布団から半身を起こした女が、窓の外の港を見ていた。
宗像大宮司・宗像正氏の娘――菊姫。
三年前、狂犬堂博多出店準備の最中。
宗像から遊びに来ていた菊姫は、狂犬堂の化粧品に目を輝かせていた。
「変装に使うって? なら私は、可愛くなるために使う」
そう言って、鏡を抱えて笑った少女は、もういない。
陶晴隆の妹を母にもつ異母弟・宗像氏貞が、宗像を乗っ取るために起こした御家騒動。
母は惨殺。
夫は斬殺。
菊姫も胸を深く斬られ、血溜まりの中に倒れた。
救い出したのは、さくら、あやめ、せつな。
だが、命は拾えても、血は戻らない。
三年。
血を補い、肉を戻し、息を整え――
ようやく、起き上がれるようになった。
せつなが薬碗を差し出す。
「苦いで」
「……慣れた」
「慣れたらあかん」
菊姫は薄く笑った。胸元の刀傷は塞がっているが、白い皮膚に残る線は消えない。
「この傷、消えないのね」
「消えたら、嘘みたいやろ」
「嘘……」
せつなは窓の外を見た。
「今の宗像は、“菊姫の呪い”でまとまっとる」
菊姫の目が、わずかに揺れる。
宗像氏貞は、粛清を繰り返し、
「菊姫の祟り」「呪いを鎮めよ」と家中を震え上がらせ、
恐怖で統率を完成させた。
恐怖は、強い。
だが、長くは続かない。
「私が……呪い?」
「便利な言葉や。殺した側が、生き残りを悪者にする。昔からや」
半蔵が、低く口を挟む。
「呪いは統率に使える。だが、海は呪いでは動かん」
宗像水軍は、海の民。
潮と風を読む者たち。
恐怖では舟は漕げない。
菊姫は、胸の傷に触れた。
「……宗像水軍を、取り戻せる?」
せつなは、即答しない。
薬を置き、菊姫の前に座る。
「取り戻す、やない。作り替える」
「作り替える……」
「今の宗像は、氏貞の恐怖で固めた水軍や。
せやけど、海は銭と飯で動く。
彦島が育てば、関門が押さえられる。
博多、宗像、彦島……海の喉が繋がる」
菊姫は、ゆっくり息を吐いた。
「狂犬様は……本当に西国をほふる気?」
「ほふる、言うたら物騒やな」
「物騒なのは、あの方でしょ?」
せつなは肩をすくめる。
「姫様はな、義理で動く。
人身売買だけは、腸が煮える言うとった」
大友の奴隷交易。
毛利の謀略。
西国は、血と銭の匂いで満ちている。
菊姫は、目を閉じた。
「……私も、血の匂いは嫌い」
「なら、匂いを変えたらええ」
「変えられる?」
「変えるために、狂犬堂がある」
せつなは、地図を広げる。筑前、宗像、彦島。
「菊。
狂犬様の旗の下に来るか?」
「……私は、逃げた女よ?」
「生き延びた女や」
半蔵が静かに言う。
「生き延びた者は、使い道がある」
「使い道、ですか」
「海を知り、神宮の血を引き、宗像の名を持つ。
それだけで旗になる」
菊姫は、震える指を握りしめた。
「怖い」
「怖いままでええ」
せつなが、にっと笑う。
「怖いのに動く女は強い。
怖くない女は、だいたい嘘つきや」
菊姫は、涙を浮かべながら笑った。
「三年前より、あなた口が悪い」
「三年、血を見たらこうなる」
少しの沈黙。
港の喧騒が遠く響く。
「……狂犬様に会う」
菊姫は、はっきり言った。
「宗像を呪いで終わらせない」
せつなは頷いた。
「よし。
宗像水軍、新生計画や。
まずは噂から始める」
「噂?」
「“菊姫は生きている”
“狂犬の旗の下にいる”
“宗像は呪いではなく、再生する”」
菊姫は、胸の傷を押さえた。
「この傷も、旗になる?」
「なる。
消えへん傷は、嘘をつかん」
半蔵が立ち上がる。
「海は動き始めている。
遅れれば、飲まれるぞ」
せつなが菊姫の手を握る。
「博多は口。宗像は喉。
喉が詰まれば、天下の飯は流れへん」
菊姫は、静かに頷いた。
「……生きる」
「それが一番の仕事や」
炭火が、ぱちりと弾けた。
博多の海は、今日も騒がしい。
だが、その騒ぎの中で、
一人の女が――再び、立ち上がろうとしていた。
祐筆・桃の日記
西暦1555年12月20日(弘治元年 十二月下旬)
博多より報せあり。
宗像の菊姫さま、ついに自ら立つ決意をされた由。
三年前、血の海より救われし少女。
今は胸に傷を抱きつつも、海を見据える。
傷は消えずとも、旗にはなる。
呪いと呼ばれし名が、再生の名へと変わるなら、
それは狂犬様の策の一つにして、
人の縁の結実でもあろう。
博多は口、宗像は喉、彦島は歯。
海の道が噛み合えば、西国は動く。
海風は冷たいが、
火は、確かに広がっている。




