第259話 「瑠璃と徳、山寺の朝」
西暦1555年12月14日(和暦:弘治元年 十二月下旬)
長門国・長府 功山寺
夜を裂くように走り抜けたあとの朝は、驚くほど静かだった。
功山寺の山門は、冬の光を浴びて白く煙っている。吐く息が白く溶け、杉の梢からは、霜がぱらぱらと落ちた。
少女は、まだ少し震える手で、藤吉郎の指を握っていた。
「……ここが、功山寺」
「せや。妹は、この奥や」
藤吉郎の声は、いつもの軽口を含みながらも、どこか柔らかい。
忍び装束の女――あやめが、周囲を静かに見張っている。山寺とはいえ、毛利の目がどこにあるかは分からぬ。
本堂へと通されると、白髭の住職が、深く頭を下げた。
「……早う、来られたか」
その声は震えていた。
少女は、一歩前に出る。刀を両手で差し出した。
「……妹に、会いに来ました。これが証拠です」
藤吉郎が横で口を挟む。
「お嬢ちゃんの言う通りや。刀は本物やろ?」
住職は、ゆっくりと鞘を受け取り、そっと抜き身をのぞく。「千鳥一文字.....」
少女は、さらに胸元から小刀を取り出した。
刃は細いが、上質。柄頭には、大内花菱。鍔の内側に、三条家の紋。
住職の目が見開かれた。
「……まさか……」
「名は……瑠璃と申します。母は三条公頼の娘。大内義隆の正室にございます」
声は震えていたが、目は逸らさなかった。
戦国の世で、名を名乗ることがどれほど重いか、十歳の少女はもう知っている。
住職は、深く息を吸い、後ろに控える僧へ小さく指示を出した。
「……奥へ。あの子を」
畳の向こう、襖が静かに開く。
小さな影が、ちょこんと現れた。
七つほどだろうか。
おかっぱ頭、少し緊張した目。野良着姿だが、背筋はぴんと伸びている。
瑠璃の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
(……あの子……)
妹は、じっと瑠璃を見ていた。
やがて、住職が静かに言う。
「姉上ですよ」
妹は、小さく頷いた。
「……姉上様。初めまして。徳と申します。よろしくお願いいたします」
その言葉は、まるで公家の座敷で教え込まれた礼法のように整っていた。
だが声は、かすかに震えている。
瑠璃は、もう耐えられなかった。
「徳……!」
駆け寄り、抱きしめる。
痩せた肩。温かい体温。生きている。生きている。
「……姉上様……?」
徳は一瞬戸惑ったが、やがてぎゅっと、瑠璃の着物を握った。
「……生きて、おられたのですね」
その一言で、瑠璃の涙腺は決壊した。
「ごめん……遅くなって、ごめん……!」
涙が、畳にぽたぽたと落ちる。
徳も、声を殺して泣いている。
本堂に、嗚咽だけが響く。
住職は合掌し、あやめは目元を隠した。忍びのはずなのに、鼻をすする音がした。
藤吉郎は――。
「……よかったなぁ」
ぴかぴかの頭をぽりぽり掻きながら、目を真っ赤にしている。
「藤吉郎殿、泣いておる」
あやめが小声でからかう。
「泣いてへん。これはやな、柚子の香水が目にしみとるだけや」
「獄門の柚子、涙腺も攻めますな」
「うるさい!」
だが声は優しい。
涙を隠す気もないらしい。
瑠璃は、徳の顔を両手で包み込んだ。
「怖かったでしょう」
徳は、小さく首を振る。
「住職様が、守ってくださいました。……でも、姉上様が来ると信じておりました」
瑠璃は、再び抱きしめた。
藤吉郎は、そっと住職の前に進み出る。
「住職殿」
声が、変わった。
商人でも、道化でもない、武士の声だ。
「大内家の姫君お二人は、狂犬お市様が保護いたします」
住職は、深くうなずく。
「……尾張の狂犬姫、ですな」
「せや。狂犬やけど、子を食う狼やない。守る狼や」
あやめが、目だけで「うまいこと言う」と頷く。
藤吉郎は続けた。
「今まで、よう守ってくださった。心より礼申し上げる。
必ず、生かしてみせます。大内の血も、三条の血も、無駄にせん」
住職は、静かに手を合わせた。
「この寺は、乱世の風を幾度も見て参りました。
……姫君らが生き延びること、それが仏の御心でありましょう」
瑠璃は、徳の手を握ったまま、藤吉郎を見上げた。
「……あの」
「なんや、お嬢ちゃん」
「助けてくださって、ありがとうございます」
藤吉郎は、肩をすくめた。
「礼は姫様に言うとき。わしは、ただの足や」
「足?」
「尾張一の逃げ足や」
徳が、くすりと笑った。
「逃げ足様」
「あ、今うまいこと言うたな?」
本堂の空気が、少しだけ軽くなる。
涙のあとに、笑いが生まれる。それは、生きている証だった。
外では、冬の風が杉を鳴らしている。
だがもう、瑠璃は震えていなかった。
徳の手は、確かに温かい。
家族が、ここにいる。
藤吉郎は、山門の向こうを見やった。
「ほな、彦島へ帰ろか」
「……彦島?」
徳が首を傾げる。
「せや。狂犬お市様が来る場所へ。
……姫様はな、強いぞ。怖いぞ。優しいぞ」
「どれが本当ですか」
「全部や」
あやめが、小さく笑う。
「覚悟なされませ、姫君。尾張の狂犬は、龍も虎も叱りますゆえ」
徳は、瑠璃を見上げた。
「……姉上様、一緒なら、どこでも参ります」
瑠璃は、力強く頷いた。
「一緒よ。もう、離れない」
藤吉郎は、空を見上げる。
冬の朝日は、昨日よりも高く昇っていた。
「姫様、拾いもの、大当たりやで」
小さく呟いたその声は、誰にも聞かれなかったが、確かに未来へ向いていた。
祐筆・桃の日記
西暦1555年12月14日(弘治元年 十二月下旬)
本日、功山寺より吉報。
大内家姫君二名、無事保護とのこと。
瑠璃様と徳様。
名前を書くだけで、胸が温かくなる。
姫様が言っていた「船尾灯」は、まだ消えていなかった。
乱世の海は荒れ狂うけれど、灯は、風に抗って揺れている。
藤吉郎殿は「拾いもの大当たり」と書いてきた。
あの人はいつも冗談めかすが、その裏にある覚悟は、紙越しでも伝わる。
私は算用帳を閉じ、静かに思う。
守るべき命が増えた。
それは重荷ではない。
未来が増えたということだ。
姫様がこの報せを聞いたら、きっと笑うだろう。
そして、すぐ次の手を考える。
戦は続く。
だが今日だけは、胸を張って書く。
――姉妹、再会。
灯は、消えていない。




