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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第256話 「船尾灯と瑠璃」


西暦1555年12月10日(和暦:弘治元年 十二月下旬)

長門国・彦島/赤間関・竹崎

関門海峡の冬は、風が刃物になる。

潮は早く、空は低く、海の匂いが濃い。

――なのに。

彦島の丘では、鍬の音がしていた。

「ここ、もう一段、畑を伸ばせるな」

松平元康が、手袋もない手で土を握り、指の間から落とす。

土は冷たいのに、妙に粘りがある。

酒井忠次が、鼻で笑った。

「殿、城じゃなく畑から始めるのは、ほんに狂犬流ですな」

「腹が満ちねば、城は持たぬ」

元康は淡々と返し、測量縄を指で弾く。

「それに、畑は逃げぬ。人は逃げる」

「言い方ぁ……」

忠次が肩をすくめた、その時。

旗本先手役が、竹の子島の方角から声を張った。

「殿ー! 竹の子島、潮の道が二筋あります! 小早舟、潜れます!」

「よし。そこに柵。狼煙台の位置も決める」

元康は地図を広げ、彦島の要地を順番に指でなぞった。

竹の子島。老の山。田の首。福浦。――どれも地味な地名だが、ここを押さえる意味は重い。

忠次がぼそり。

「……砦と灯台と狼煙台。殿、戦国なのに海の道が“道”として整っていきますな」

「海の道は、甲斐の山道より速い」

元康は笑わないまま、さらりと言った。

「武田殿の躑躅ヶ崎から浜名湖まで、馬で何日かかる。だが舟なら、潮が良ければ――」

「殿、武田の地元ネタ、そこで挟むのやめてもろて」

「挟まぬと忘れる。皆、すぐ“海だけ”を見る」

忠次は苦笑しつつ、測量棒を地面に突き立てる。

「……で、狼煙の合図は? 姫様のことです、音楽で合図とか言い出しませんか」

「三味線で狼煙は上がらぬ」

「姫様なら上げますわ!」

二人の会話の端を、旗本先手役たちが聞いて笑う。

笑い声が、冬の空気を少しだけ柔らかくした。

――同じ頃。

赤間関の港町・竹崎。

藤吉郎が、港の一角に立てたばかりの商館の中は、熱気があった。

表向きは「狂犬堂・竹崎出張所」。

だが中身は、諜報の胃袋だ。

「集まったな。百人。上等や」

木下藤吉郎秀吉が、帳面を閉じる。

頭は相変わらずツルツルで、灯りを反射して眩しい。

「藤吉郎殿、眩しすぎます」

藤林あやめが真顔で言い、父の藤林長門が低く笑った。

「頭の反射で狼煙台が要らぬな」

「やかましいわ!」

藤吉郎が即ツッコミ。

だが笑いの次に、空気はすぐ締まる。

集められたのは、伊賀の諜報行商人の頭たち。

「行商」の皮を被り、各地に入り、噂を集め、噂を仕込む者たちだ。

藤吉郎は、板の上に小さな札を並べた。

札には、短い言葉が書かれている。

――毛利。

――尼子。

――大内。

――大友。

――宣教師。

――起請文。

――人身売買。

――年貢。

「ええか。流言飛語は“品”が命や」

藤吉郎が指を立てる。

「下品な噂は広がる。だが、下品な噂は“切られる”」

行商人の一人が頷く。

「尾ひれがつきすぎると、話者の首が飛ぶ」

「そう。首が飛ぶと、情報が止まる。情報が止まると――」

藤吉郎は自分の胃を押さえた。

「わしの胃が爆発する」

「結局そこですか」

あやめが冷静に返し、長門が続ける。

「では“品”とは?」

藤吉郎は、にやりと笑った。

「信じたくなる“筋”や。人は、自分が怖いものを信じる」

そう言って、札を二枚重ねる。

――毛利 × 起請文。

――尼子 × 新宮党。

「尼子と毛利は元から険悪。ここに“証拠っぽいもの”を投げる。すると尼子は身構える。毛利は疑われる。どっちも動きが硬くなる」

行商人たちの目が鋭くなる。

「証拠は?」

「“ある”と言う。だが“見せない”」

藤吉郎が言い切る。

「見せると嘘がばれる。見せないと、探し始める。探し始めると、疑心暗鬼が育つ」

あやめがぽつり。

「育つ……」

「そう。疑心暗鬼は畑と同じや。水をやれば勝手に伸びる」

そこへ、行商人の頭の一人が、控えめに手を挙げた。

「……大内のことですが」

藤吉郎が顔を向ける。

「現当主、義長殿は、家中をまとめきれておりませぬ。まさに――」

「風前の船尾灯、やな」

藤吉郎が先に言い、行商人が頷いた。

「その通り。船尾灯が消えれば、夜の舟は散ります」

藤吉郎は、ふっと表情を変えた。

「だから、義長を彦島へ“連れてくる”」

あやめの眉がわずかに上がる。

「……保護、ですか」

「保護に見せた確保や。義長がこちらにいれば、大内残党は“寄る場所”を持つ。寄る場所を持てば、毛利から離れる。毛利から離れれば――」

藤吉郎は札を重ねる。

――大内 × 五か国連合。

「義が通る。建前が立つ。銭が回る。兵が動く」

長門が低く言った。

「猿殿、手際が良いな」

「姫様に鍛えられたからな。褒めるなら胃薬をくれ」

その時だ。

別の行商人が、周囲を見回し、声を落とした。

「……さらに、一つ」

空気が変わる。

「大内義隆様と、正室・三条婦人様の……忘れ形見が、寺に匿われているらしい、と」

藤吉郎の目が、瞬間、獣になる。

「どこや」

「瑠璃光寺。それと――功山寺」

あやめが息を呑み、長門が静かに目を細める。

瑠璃光寺。

周防の国の名刹。

五重塔で知られ、僧も人も集まる場所だ。

功山寺は、長門の要衝に近い寺。山中で、人が隠れるには都合が良い。

藤吉郎は、しばらく言葉が出なかった。

それから、ぽつり。

「……当たりや」

あやめが確認する。

「何が、です」

藤吉郎は、笑った。だが笑いの奥に、冷えた刃がある。

「“正統”や」

彼は札をひっくり返し、裏に新しい言葉を書いた。

――血。

――旗。

――民。

「忘れ形見が“生きている”だけで、残党は息を吹き返す。毛利は怖がる。大友も動く。尼子は迷う。――そして、こちらは“義”を掲げられる」

長門が頷く。

「朝敵の認定、錦の御旗。姫様の狙いにも繋がる」

「そうや。姫様は“義”を道具にする。だが道具にするために、ちゃんと泣ける人や」

藤吉郎は、思い出したように天井を見上げる。

「人身売買の話を聞いた時の、あの顔。あれは、怒りやなくて――」

「痛み、ですか」

あやめの言葉に、藤吉郎は短く頷いた。

「……せや。だから、勝つ」

藤吉郎は立ち上がった。

「瑠璃光寺に潜る準備をする。あやめ、案内筋を洗え。行商は、寺の米、灯明油、紙の動きを追え。隠すなら必ず“物”が動く」

「はい」

「長門殿、寺の僧の“癖”を調べる。金に弱いか、義に弱いか、女に弱いか」

長門が笑う。

「最後が一番早いな」

「やめろ! 寺やぞ!」

即ツッコミで場が少し緩む。

だが藤吉郎は、次の瞬間には真顔に戻っていた。

「これは大あたりや。外したら胃が死ぬ」

あやめが淡々と返す。

「胃より先に、首が飛びます」

「それも困るわ!」

商館の外では、潮の音がする。

海峡の向こうは九州。

そのさらに向こうに、大友。

背後には毛利。

だが、藤吉郎の視線は、寺へ向いていた。

灯は消えかけても、灯心が残っていれば、火は戻る。

――船尾灯は、まだ消えていない。

祐筆・桃の日記

西暦1555年12月10日(弘治元年 十二月下旬)

鳴海から届く報せは、毎日、重い。けれど今日は、重いだけではなく、胸の奥が熱くなる報せだった。藤吉郎殿が竹崎に商館を立て、伊賀の行商頭を百名集め、毛利への流言の“筋”を整えたという。あの人は冗談みたいに頭が光っているのに、言葉はいつも鋭い。姫様が拾ったのは、草履取りではなく、火種だったのだと思う。

そして――瑠璃光寺と功山寺。大内義隆様と正室の忘れ形見が匿われているかもしれない、と。まだ確かなことではない。けれど、もし本当なら、船尾灯は消えていない。消えていない灯は、人を集める。人が集まれば、義も銭も動く。姫様の道は、また一段、確かなものになる。

彦島では元康殿と忠次殿が測量を進め、砦と狼煙台の場所を決めているという。畑を先に作る戦の支度――それが狂犬流。笑ってしまうほど姫様らしいのに、いつも理に適っているから怖い。

冬の潮は冷たい。けれど、冷たい潮ほど、速く流れる。

この流れに乗る者は多い。乗れぬ者は、置いていかれる。私は帳面を閉じ、明日の算用を始めた。姫様の背中を、数字で支えるのが私の役目だ。

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