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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第254話 「銀龍、冬の海に竿を垂らす」

西暦1555年12月7日(和暦:弘治元年 十二月上旬)

尾張国・鳴海漁港

冬の海は、静かである。

静かだが、冷たい。

冷たいが、どこか澄んでいる。

鳴海漁港の沖は、薄く銀色に光っていた。朝の陽が低く、波の縁だけを白く照らしている。港には狂犬堂の商船が出入りし、荷揚げの声が響いているが、少し離れた突堤の先は、不思議と別世界のようだった。

そこに、二人。

長尾景虎。

雪のように白い美人である。いや、雪よりも冷ややかで、雪よりも鋭い。

だが今日は、鋭さの代わりに、穏やかさをまとっていた。

隣に座るのは、前田慶次。

長身、豪放、派手好き。だが今は、落ち着いた色合いの“狂犬織”に身を包んでいる。景虎のお気に入りの織物だ。

「……風、弱いな」

慶次が呟く。

「うむ。釣り日和だ」

景虎は、淡々と答える。

白い息が、海に溶ける。

二人の間に置かれた桶には、まだ魚はいない。だが焦りはない。

景虎が鳴海に来てから、数日。

爆速で駆けつけた銀龍は、いまは港で静かに竿を垂らしている。

病んでいた頃の景虎を、慶次は知っている。

戦に勝ち続け、義を守り続け、それでも心が追いつかず、夜ごと眠れぬ時期があった。

その時、慶次は何も語らず、ただ隣に座って酒を飲み、釣りをし、無駄話をした。

それからの仲である。

「慶次」

「なんだ、銀龍」

「その呼び名、やめよ」

「越後の龍だろう?」

「今日はただの釣り人だ」

「……じゃあ、銀魚」

「釣るぞ」

慶次が笑う。

「ははは、失礼」

波が小さく岸壁を叩く。

遠くで網を引く漁師の掛け声がする。

今日、狂犬お市は休み――のはずだった。

だが、鳴海城下で“ゲリラ・ミニコンサート”をやるらしい、という噂が港にも流れている。

慶次が顔をしかめた。

「姫様、またやるのか」

「何をだ」

「津軽三味線で“戦国ロック”だ」

景虎の眉がわずかに動く。

「……戦国、ろっく?」

「義を叫び、火薬を叩き、天道を鳴らす音楽らしい」

「迷惑ではないか」

「迷惑だ」

即答。

景虎が小さく笑った。

その笑みは、雪解けのように柔らかい。

「……妹らしい」

「らしいな」

二人は再び、海を見る。

しばらくして、景虎の竿先が、わずかに震えた。

ぴくり。

景虎の瞳が鋭くなる。

その一瞬、やはり銀龍だと思わせる気配。

「来た」

「落ち着け。慌てるな」

「慌てぬ」

竿が大きくしなる。

波の中で、銀色が跳ねた。

「チヌだ!」

慶次が声を上げる。

景虎は、静かに、しかし確実に糸を巻く。

無駄な力はない。引く時は引き、緩める時は緩める。

「……戦と同じだな」

「魚を相手に策を使うのか」

「使う」

やがて、黒光りするチヌが水面に浮いた。

慶次が網を入れる。

ばしゃり。

桶の中で、魚が跳ねる。

景虎が、ほんの少し誇らしげに言った。

「釣った」

「見事だ、銀――いや、ただの釣り人殿」

「よい」

景虎は桶を覗き込む。

「冬のチヌは脂が乗る」

「詳しいな」

「越後は海が荒い。釣れる時に釣らねば飢える」

その言葉には、戦国の地の厳しさが滲む。

慶次が竿を置き、景虎を見る。

「……景虎」

「なんだ」

「西国の件、本気だな」

「本気だ」

即答。

「妹が怒っている」

「怒っているな」

「人身売買は、許せぬと」

「許せぬ」

その声は低いが、揺るぎない。

「……あやつは医者だ。命を救う側の人間だ。命を銭に替える者は、許せぬのだろう」

慶次が静かに頷く。

「景虎は?」

「わらわは――」

景虎は、海を見つめたまま言う。

「義に背く者は、討つ。それだけだ」

風が吹く。

白い頭巾が揺れる。

その姿は、確かに銀龍。

だが、今は釣り人である。

港の向こうから、遠く三味線の音が聞こえた。

べん、べべん。

「……始まったな」

慶次が苦笑する。

景虎が耳を澄ます。

「上手いな」

「上手い。だがうるさい」

「港の魚が逃げるぞ」

「魚より町人が集まる」

実際、漁港の若衆がそわそわし始めていた。

「行きますか」

「釣りが終わってからだ」

景虎は、再び竿を握る。

「……今日は、ただの休みだ」

「戦の前のな」

「そうだ」

二人は、並んで海を見つめた。

狂犬と銀龍。

その間にいる慶次は、ふと思う。

――この時代は、面白い。

狂犬が三味線を鳴らし、銀龍がチヌを釣り、海の向こうでは毛利と大友が牙を剥く。

すべてが、同じ空の下で動いている。

景虎が、ぽつりと言った。

「慶次」

「なんだ」

「……鳴海は、温かいな」

慶次は、少し驚いてから笑った。

「味噌が多いからな」

「違う」

「じゃあ?」

「人が多い」

慶次は、竿を握り直す。

「なら、守らねばな」

「守る」

その声は、静かだが、揺るがない。

桶の中のチヌが、もう一度跳ねた。

冬の海は、今日も静かである。

祐筆・桃の日記

西暦1555年12月7日(弘治元年 十二月上旬)

本日、鳴海漁港にて景虎様と慶次殿が並んで釣りをなさったと聞く。景虎様は雪のように白く、冬の海に溶け込む姿であったという。桶には見事なチヌが一尾。戦場では軍神、港では釣り人。人は場所により姿を変えるのだと改めて思う。

姫様は城下で三味線を鳴らし、町人を熱狂させていた。戦の準備は進み、流言は流れ、兵は集まり、港には船が増える。それでも、こうして釣りをし、笑い、音を鳴らす日がある。

嵐の前の静けさ、というにはあまりに賑やかである。

だが確かに、何かが大きく動く前の、温かい一日であった。

銀龍と狂犬が並ぶ鳴海。

この町は、きっと歴史に刻まれる。

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