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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第252話 「義憤の東風」

西暦1555年12月3日(和暦:弘治元年 十一月下旬)

遠江国・浜名湖東岸

冬の浜名湖は、どこか静まり返っていた。

潮の満ち引きがあるとはいえ、湖面は穏やかで、遠くの松林が低い風にざわめいている。

その東岸を、赤い列が進んでいた。

武田太郎義信。

その背に続く、飯富虎昌率いる赤備え百騎。

精鋭中の精鋭――武田の誇り、赤の波。

虎昌の隣には、弟の飯富源四郎。

二人の赤備えが並ぶ様は、まるで甲斐の山脈が動いているようだった。

その後方には、四郎勝頼、真理姫。

さらに真田幸隆、信綱ら真田一門が堅実に隊列を整えている。

武田は、動いた。

それは単なる出兵ではない。

三条の方の涙を背負っての進軍だった。

義信は、湖面を見ながら呟いた。

「……遠江は広いな」

甲斐は山国。

道は曲がり、視界は狭い。

だがここでは、地平がまっすぐに伸びている。

飯富虎昌が、静かに言った。

「若。広いからこそ、覚悟が試されます」

「覚悟か」

「はい。山は逃げ場になりますが、平地は逃げ場がございませぬ」

源四郎が横から軽く笑う。

「兄上、若を怖がらせてどうする」

「怖いものを怖いと言えぬ若では困る」

義信は小さく笑った。

「赤備えは相変わらず容赦がないな」

虎昌は真顔のまま答える。

「武田は、優しさで立ってはおりませぬ」

だが、その声の奥には、確かな敬意があった。

後方。

勝頼が馬上で伸びをする。

「寒いな」

真理姫が即座に言い返す。

「勝頼様、寒いのは冬だからです」

「わかっている」

「なら文句を言わないでください」

真田幸隆が笑いをこらえる。

「姫様は手厳しい」

「武田の姫ですから」

信綱が小声で言う。

「将来が恐ろしい」

「聞こえております」

一同、吹き出す。

だが、笑いの奥に緊張は消えない。

真理姫が幸隆に尋ねる。

「ねえ、幸隆殿。狂犬様って、本当に狂っているの?」

幸隆は、少し考えた。

「狂っておるのは、世の方かもしれませぬ」

「答えになってない」

勝頼が横から口を挟む。

「怖いという話は聞く」

「どんな?」

「怒ると怖い」

「優しい?」

「……怒るのは、守るためらしい」

真理姫は真顔になる。

「なら、怖くない」

「なぜだ」

「守るために怒る人は、嫌いじゃない」

幸隆が小さく頷く。

「姫様は勘が鋭い」

勝頼がぼやく。

「俺の勘は当たらんのに」

「それは修行不足です」

信綱が即答し、また笑いが起きる。

義信は、後方の様子を見ながら思う。

若い。

だが、この若さが未来だ。

三条の方の涙は、軽くはない。

大寧寺の変。

父を失った悲しみ。

武田は、ただ戦うのではない。

義で動く。

義信は空を見上げる。

「新しき甲斐、新しき戦……」

虎昌が静かに言う。

「若。狂犬殿は、長尾景虎殿と義姉妹とか」

「ああ。月下の誓いと聞いた」

「女同士の桃園の義。面白い世でございます」

義信は微かに笑う。

「面白いか」

「武田も変わらねば、置いて行かれます」

源四郎が言う。

「狂犬殿は医者でもあるとか」

「商いも回す」

「戦も回す」

虎昌が締める。

「恐ろしい方でございます」

義信は、湖の向こうを見た。

「恐ろしいが……会ってみたい」

それは、義憤だけではない。

武田の未来として、何かを学ぶための進軍だった。

浜名湖の風が吹く。

甲斐味噌を溶いた汁が、兵の腹を温める。

若い赤備えが言う。

「遠江の魚はうまいと聞きましたが」

古参が即座に返す。

「魚より義を食え」

「食えません!」

源四郎が笑う。

「魚は西で食えばよい」

勝頼が言う。

「下関は魚がうまいらしい」

真理姫が目を輝かせる。

「なら絶対行く」

幸隆が呟く。

「戦の動機が魚とは……」

「武田の未来は胃袋で動くのか」

信綱の一言で、また笑いが広がる。

だが義信は、笑わない。

湖面を見つめながら、静かに呟く。

「母上。武田は、動きます」

冬の風が、それをさらっていった。

赤備えが、再び動き出す。

義憤を胸に。

新しき戦へ。

祐筆・桃の日記

西暦1555年12月3日(弘治元年 十一月下旬)

今日は武田が浜名湖東を進んでいるという報せが届いた。赤備え百。文字で見るだけで、紙が赤く見える気がする。姫様は診療の合間にそれを読み、「若いな」と笑った。義信殿のことか、勝頼殿のことか、真理姫のことか、聞きそびれた。

三条の方の涙を思うと、胸が少し重くなる。だが姫様は重さを重さのまま抱える人だ。怒るときは怒り、守るときは守る。怖いか優しいかと問われれば、やはり両方だと思う。

武田の若君たちは、姫様をどう見るだろう。狂犬と呼ばれても、本人はあまり気にしていない。むしろ楽しんでいる節がある。あの人は、自分の噂を利用するのが上手い。

浜名湖の風は冷たいだろう。だがその風の先に、姫様の計画がある。

義が動く音が、少しずつ近づいている。

筆を置くと、モモンガの桃が袖に潜り込んだ。

戦が近づくと、なぜか温もりが恋しくなる。

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