第250話 「港に響く、冬の音」
西暦1555年12月1日(和暦:弘治元年 十二月上旬)
尾張国鳴海城下・外港桟橋
冬の朝は、白い。
鳴海城下の外れ、海へ伸びる桟橋近く。
小さな忠魂碑の前に、ひとりの女が立っていた。
狂犬お市。
その手にあるのは、刀ではない。
津軽三味線である。
乾いた撥の音が、冬の海風に乗って響く。
重く、鋭く、どこか哀しい旋律。
蝦夷で覚えた音。
潮と雪の匂いを含んだ音色だった。
桟橋には、すでに人が集まっている。
先発隊。
木下藤吉郎。
松平元康。
酒井忠次。
蜂須賀小六。
そして川浪衆二百、旗本先手役二百、彦島開拓団二百。
さらに各宗派から二名ずつ、僧侶も加わっている。
表向きは――
博多狂犬堂商館への商い。
だが中身は、長門・彦島占領の第一歩であった。
安宅舟が、九鬼水軍の護衛のもと、出立を待っている。
甲板には米俵、鍬、槌、木材。
武具は、商人荷の下に隠されていた。
三味線の音が止まった。
お市は、ゆっくりと忠魂碑に向き直る。
石には、小さな文字が刻まれている。
「鳴海守護の士」
先の戦で散った者たちの名。
全員が、黙祷を捧げた。
潮風が頬を打つ。
誰も、言葉を発しない。
やがてお市が振り向いた。
「行くか」
その一言で、空気が動いた。
お市は一人ずつ、握手をして回った。
川浪衆の若者が、緊張で震えている。
「初陣か」
「は、はい!」
「刀は振るうな。鍬を振るえ」
若者は目を丸くした。
「は?」
「農地を作るほうが、難しいぞ」
小六が横から笑う。
「姫様、初陣にそれは酷です」
「命より軽い刀は、抜くなと言うておる」
川浪衆の男は、涙目で頷いた。
藤吉郎の番になる。
「猿」
「はいはい、猿でございます」
「調子に乗るな」
「乗ってませんって」
お市は小さく笑う。
「失敗したら逃げろ」
藤吉郎が目を細める。
「姫様らしくない」
「死なれては困る」
藤吉郎は少しだけ真顔になった。
「逃げるときは、姫様の顔を思い出して逃げます」
「それは腹が立つ」
「はは」
二人は、ほんの一瞬、静かに見つめ合った。
元康。
まだ若いが、すでに眼差しは重い。
お市は彼の手を強く握る。
「無理をするな」
「承知しております」
「毛利の調略に気をつけよ」
「はい」
「大友、とくに戸次の武。あれは侮るな」
元康は深く頷いた。
「姫様こそ」
「わらわは後から行く」
「信じております」
その言葉は、揺らがなかった。
忠次は黙っていた。
お市がじっと見つめる。
「何か言え」
「……勝って帰ります」
「勝たずともよい」
忠次は目を上げる。
「え?」
「生きて帰れ」
その声は、わずかに震えていた。
忠次は一瞬、驚き。
やがて力強く答えた。
「必ず」
最後に、小六。
「船島と海水路の警戒、頼むぞ」
「任せとけ」
「桟橋を作れ」
「作る」
「彦島と赤間関を、上げ下ろし橋で繋げ」
「橋か。面白ぇ」
「水門もだ」
「忙しいなぁ」
「だからお前を選んだ」
小六はにやりと笑った。
「姫様に言われちゃ、やるしかねぇな」
舟へと向かう足音。
甲板に上がる背中。
潮の匂いが強くなる。
お市は最後に声をかけた。
「みな、元気でな」
そして、静かに付け足す。
「常に次の手を考えよ」
「失敗しても、五か国がある」
「蝦夷がある」
「攻め方は、一つではない」
風が吹いた。
安宅舟の帆が、ゆっくりと膨らむ。
九鬼水軍の合図が鳴った。
舟は、音もなく滑り出す。
鳴海の海を離れ、西へ。
博多へ。
そして――
下関へ。
三味線の撥が、再び鳴る。
今度は、軽い旋律だった。
別れの音ではない。
約束の音だ。
桟橋に残るお市。
その横で、桃が静かに立っていた。
「寂しゅうございますか」
「別に」
「嘘です」
お市は少しだけ笑う。
「義は、別れを伴う」
「ならば、また会えばよろしい」
桃は言う。
「姫様は、会える戦をなさっております」
お市は遠ざかる舟を見つめた。
「そうであれば、よいのだがな」
冬の海は、冷たい。
だが、音は温かかった。
狂犬の戦は。
血ではなく、土と水から始まる。
祐筆・桃の日記
西暦1555年12月1日(弘治元年 十二月上旬) 鳴海港
本日、先発隊が西国へ出立いたしました。
姫様は三味線を弾いておられました。
あの音は、蝦夷で覚えたもの。
冷たい風に混じり、胸に沁みました。
姫様は皆に「生きて帰れ」と申されました。
戦の主が、まず命を案じる。
それが狂犬でございます。
私は存じております。
姫様は、失敗を恐れておりませぬ。
ただ――
人を失うことを、何より嫌っておられます。
舟は西へ向かいました。
義は、今、海を渡ります。
私は、鳴海で治水と銭を守ります。
姫様の背中を、筆で支えるのが私の務め。
次に会うとき。
全員が揃っておりますように。
それが、今日の祈りにございます。




