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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第249話 「六万の鍬、千の志」


西暦1555年11月28日(和暦:弘治元年 十一月下旬)

下総・常陸国境 利根川流域/尾張国鳴海城

冬の関東は、乾いていた。

空は高く、風は冷たい。

だが――

河だけは、熱を帯びている。

利根川。

坂東太郎。

関東最大の暴れ河は、今日も唸り声を上げていた。

しかし今、その河原には六万の人の影がある。

北条二万。

武田晴信二万。

そして、長尾景虎配下、直江景綱・宇佐美定満ら二万。

三家が、同じ河に向き合っていた。

戦ではない。

治水である。

鹿島河口。

北条軍は下流から堤を築き、流れの出口を広げていた。

「焦るな。河口を広げよ。水は逃げ場を作れば暴れぬ」

北条氏康の声は、戦場のそれと同じく鋭い。

だが刀は抜かれていない。

握られているのは、図面と杭だ。

若き氏照が、泥だらけの足軽を見ながら呟いた。

「父上、これは戦より骨が折れますな」

氏康は笑った。

「だからこそ意味がある」

瑞渓院が、遠くからその様子を見ていた。

狂犬お市。

あの女の一筆が、関東を動かしている。

氏康はふと空を見上げた。

「義とは、兵を集めるより難しい」

だが今――

義で六万が動いている。

南側。

武田晴信の陣。

「水を殺すな。導け」

晴信は利根川の蛇行を指でなぞった。

信濃で培った山河の知恵が、ここで生きる。

信繁が、杭打ちの列を見つめる。

「兄上、これはまるで川中島の前哨戦のようですな」

晴信は小さく笑った。

「川中島では血が流れた」

「ここでは水だけが流れる」

そして、静かに付け加えた。

「狂犬殿は、戦の形を変えようとしている」

信繁は頷いた。

「ならば我らも、形を変えるのみ」

さらにその上流。

長尾勢。

直江景綱が声を張る。

「杭を三段にせよ!堤は一段では持たぬ!」

宇佐美定満が笑った。

「越後の雪堤と同じ理屈だな」

景綱は答えた。

「景虎様が聞けば、必ずお市様に文を送るでしょうな」

宇佐美は目を細めた。

「月下の誓い、か」

長尾景虎。

女でありながら、義を背負う軍神。

狂犬お市と桃園の義を結んだ姉妹。

義理ではなく、魂で結ばれた関係。

その二人が同時に動けば――

天下は震える。

一方。

尾張国鳴海城。

こちらもまた、別の熱気に包まれていた。

城門前に列ができている。

募兵である。

すでに千を超えた。

前田利家が腕を組み、応募者を睨む。

「次!」

一人の若武者が進み出た。

「名を」

「山田浅右衛門にございます」

利家が眉を上げる。

「浅右衛門?」

慶次が横から口を出す。

「なんか強そうな名だな。斬り役人みたいだ」

浅右衛門は真顔で答えた。

「斬ります」

「何をだ」

「不義を」

一瞬、場が静まった。

利家は口元を歪めた。

「志はよい」

「腕は?」

浅右衛門は腰の刀に手を置く。

「三人斬りでございます」

慶次が吹き出す。

「三人? 少なっ!」

「いえ、試し斬りではございませぬ」

「本番か!」

利家が慶次を肘でつついた。

「静かにせい」

そして浅右衛門に問う。

「なぜ狂犬に?」

浅右衛門は迷わず答えた。

「義を見たからにございます」

利家は黙った。

慶次が小声で言う。

「最近そればっかだな」

利家は頷く。

「だが、それで十分だ」

「合格」

浅右衛門は深々と頭を下げた。

その背後には、まだ長い列が続いている。

農民出の足軽。

浪人。

商家の次男。

それぞれの理由で。

だが口にする言葉は、ほぼ同じ。

義。

狂犬。

未来。

天守。

狂犬お市は、地図の前に立っていた。

利根川。

関東平野。

そして西国。

九州、中国、下関。

すべては一本の線で繋がる。

背後から声がした。

「姫様」

桃である。

「募兵、千百三十七名に達しました」

お市は振り向かない。

「ほう」

「さらに増えております」

沈黙。

やがて、お市はぽつりと言った。

「河も、人も、流れを変えれば変わる」

桃が小さく笑う。

「姫様は、流れそのものを変えております」

お市は、わずかに肩をすくめた。

「わらわはな」

「流れに石を投げておるだけじゃ」

「波紋が広がるかどうかは、河次第よ」

だがその声は――

どこか、嬉しそうだった。

義で人が集まる。

金でも、恐怖でもなく。

それは戦国において、最も難しいことだ。

そして今。

鳴海に。

六万の鍬と、千の志が集まり始めている。

祐筆・桃の日記

西暦1555年11月28日(弘治元年 十一月下旬) 鳴海城

利根川治水は順調に進んでおります。

北条、武田、長尾。

三家が争うことなく、同じ河を相手に汗を流しております。

姫様の一筆で六万が動きました。

これを奇跡と言わずして、何と言うのでしょう。

鳴海には志願者が千を超えました。

今日も若者が、「義を見た」と言って頭を下げました。

姫様は表情を変えませんでしたが。

ほんの少しだけ。

口元が緩んでおりました。

姫様は孤独を好むお方です。

ですが――

今は違います。

義が、人を呼び。

人が、義を強くする。

その循環を。

私はこの目で見ております。

狂犬の戦は、血よりも先に。

志で始まっております。

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