第248話 「月下の誓い、越後の龍は笑う」
弘治元年十一月
尾張国鳴海城
武田家
北条家
長尾家
御当主並びに重臣衆 御中
狂犬お市 朱印
一筆申し入れ候。
来月より開始の利根川治水につき、各家兵二万の御負担、誠に痛み入り候。
此の大事業、天下万民の安寧の基にて候。
然るに此度、西国において看過し難き事態出来候。
大寧寺の変、表向きは陶晴隆の謀反なれど、毛利元就これに深く関与せし証左、諸方より到来仕り候。
加えて、三条殿の御父君、姉君を失わしめし遠因ともなり候。
かかる不義、不忠、断じて許すべからず候。
また、豊後大友においては、人を売り銭と為す行い、民草の涙止まず候。
これらは、義に背き、天道に逆らうものにて候。
よって此度、狂犬お市、西国出兵を決断仕り候。
まず長門国下関・彦島を押さえ、火ノ山並びに門司和布刈に築城仕り、海峡の安寧を確立仕る所存に候。
なお、治水の後詰めにつきては、
桃、寧々、まつを総代として狂犬堂をもってこれを支え、滞りなきよう取り計らい候。
つきては、
義に準じ、共に不義を討たんと志す勇者あらば、
鳴海城へ参集されたく候。
九鬼水軍をもって、速やかに西国へ渡海せしむる用意あり候。
これは命ではなく、義の呼びかけにて候。
天道は見て候。
義は必ず勝つものにて候。
狂犬に続け。
以上。
狂犬お市(朱印)
追伸
景虎姉上いつも、妹が、戦線拡げてすまぬ。人身売買だけは、腸が煮える、我慢できぬ妹をゆるして下され
だれよりも、
大好きな景虎姉上へ
狂犬お市
西暦1555年11月11日(和暦:弘治元年 十一月下旬)
越後国 春日山城
越後の冬は、早い。
春日山城の空には、すでに雪の気配があった。
山の風は鋭く、骨を刺すように冷たい。
だが――
その城の中心にいる女の瞳は、燃えていた。
長尾景虎。
越後の龍。
女でありながら、誰よりも義を重んじる者。
その景虎の前に、朱印状が置かれていた。
尾張国鳴海城――狂犬お市。
義妹からの手紙。
景虎はまだ開いていなかった。
手を置いているだけだった。
その隣で、仙桃院が静かに見ていた。
景虎の姉。
姉であり、そして景虎を誰よりも理解する存在。
「景虎」
仙桃院が、優しく言った。
「読まぬのですか」
景虎は答えなかった。
ただ――
小さく笑った。
「読まずとも」
静かに言った。
「わかる」
仙桃院が微笑む。
「戦でございますね」
景虎は、封を切った。
障子の外では、風が唸っていた。
越後の冬の風。
その中で、景虎は読む。
一行ずつ。
ゆっくりと。
狂犬の言葉を。
義を。
怒りを。
そして――
最後の追伸を読んだ。
その瞬間。
景虎の指が、止まった。
沈黙。
重臣たちは、誰も動かなかった。
直江景綱。
柿崎景家。
宇佐美定満。
越後の柱石たちが、静かに主を見ていた。
やがて――
景虎が、小さく笑った。
「ふ……」
仙桃院が聞いた。
「どうしました」
景虎は答えなかった。
ただ、手紙を胸に当てた。
そして、呟いた。
「……馬鹿者」
その声は、優しかった。
「許すも許さぬも、あるものか」
仙桃院が、そっと問う。
「妹御でございますからね」
景虎は頷いた。
「そうだ」
そして、顔を上げた。
その目は――
戦場の目だった。
「直江」
「はっ」
「この戦」
一瞬の間。
景虎は、笑った。
「越後は動かぬ」
重臣たちが息を呑む。
だが――
景虎は続けた。
「だが」
その声は鋭かった。
「わたしは動く」
空気が変わった。
柿崎景家が笑った。
「ははは!それでこそ景虎様!」
直江景綱も頷いた。
「御供いたします」
景虎は、手紙を見た。
お市の文字。
妹の文字。
あの夜のことを思い出した。
月の下。
酒を酌み交わし。
誓った。
「我らは姉妹」
「義で結ばれし者」
血ではない。
だが――
それ以上の絆。
景虎は立ち上がった。
「兵は出さぬ」
重臣たちが見る。
「だが――」
景虎は笑った。
「景虎は行く」
仙桃院が、静かに目を閉じた。
そして言った。
「……行きなさい」
景虎が振り向く。
仙桃院は微笑んでいた。
「あなたは、あの子の姉でしょう」
景虎の目が、優しくなった。
「姉上……」
仙桃院は続けた。
「ただし」
景虎は首を傾げる。
仙桃院は笑った。
「死ぬのは許しません」
景虎は――
笑った。
「当然だ」
越後の龍は、死なぬ。
まだ。
義を果たしていない。
景虎は空を見た。
越後の空。
その向こう。
尾張がある。
「待っていろ」
小さく呟いた。
「お市」
その声は、風に溶けた。
祐筆・桃の日記
西暦1555年11月11日(弘治元年 十一月下旬) 鳴海城
本日、越後に送った姫様の書状が景虎様のもとへ届いたとの報せが入りました。
景虎様は、越後としてではなく――
景虎様ご自身として動かれるとのこと。
これは、同盟ではございません。
これは――
姉妹の誓い。
姫様と景虎様は、月の下で義姉妹の誓いを結ばれました。
桃園の誓いのように。
あのお二人は、戦のために結ばれたのではありません。
義のために結ばれたのです。
姫様は、誰よりも孤独なお方です。
ですが――
景虎様がおられます。
それだけで、姫様はどこまでも進めるのでしょう。
そして景虎様もまた――
姫様のためならば、地の果てまで行かれるでしょう。
義とは、これほど美しいものなのだと、
筆を持つ手が震えました。




