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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第247話 「相模の獅子、義を量る」

弘治元年十一月

尾張国鳴海城

武田家

北条家

長尾家

御当主並びに重臣衆 御中

狂犬お市 朱印

一筆申し入れ候。

来月より開始の利根川治水につき、各家兵二万の御負担、誠に痛み入り候。

此の大事業、天下万民の安寧の基にて候。

然るに此度、西国において看過し難き事態出来候。

大寧寺の変、表向きは陶晴隆の謀反なれど、毛利元就これに深く関与せし証左、諸方より到来仕り候。

加えて、三条殿の御父君、姉君を失わしめし遠因ともなり候。

かかる不義、不忠、断じて許すべからず候。

また、豊後大友においては、人を売り銭と為す行い、民草の涙止まず候。

これらは、義に背き、天道に逆らうものにて候。

よって此度、狂犬お市、西国出兵を決断仕り候。

まず長門国下関・彦島を押さえ、火ノ山並びに門司和布刈に築城仕り、海峡の安寧を確立仕る所存に候。

なお、治水の後詰めにつきては、

桃、寧々、まつを総代として狂犬堂をもってこれを支え、滞りなきよう取り計らい候。

つきては、

義に準じ、共に不義を討たんと志す勇者あらば、

鳴海城へ参集されたく候。

九鬼水軍をもって、速やかに西国へ渡海せしむる用意あり候。

これは命ではなく、義の呼びかけにて候。

天道は見て候。

義は必ず勝つものにて候。

狂犬に続け。

以上。

狂犬お市(朱印)


西暦1555年11月8日(和暦:弘治元年 十一月下旬)

相模国 小田原城

相模の空は、甲斐とは違う静けさを持っていた。

海が近い。

潮の匂いが、城の石垣の隙間をすり抜けてくる。

関東最大の堅城――小田原城。

その奥、御殿の評定の間に、北条家の中枢が集まっていた。

障子の外には、箱根の山々。

内には、関東の覇者たる男。

北条氏康。

相模の獅子。

その手にあるのは――

狂犬の朱印状。

「……」

氏康はまだ開いていなかった。

重臣たちが、固唾を呑んで見守る。

松田憲秀。

大道寺政繁。

遠山綱景。

風魔小太郎すら、柱の影に静かに立っていた。

そして――

氏康の隣。

瑞渓院。

彼女だけが、微笑んでいた。

「殿」

静かな声。

「読まれぬのですか?」

氏康は、封を見つめたまま言った。

「……わかっておる」

「は?」

「開ける前から、わかっておる」

重臣たちが顔を見合わせる。

氏康は笑った。

「戦じゃ」

その一言。

そして、封を切った。

静かに読む。

一文字も逃さぬように。

やがて――

最後まで読み終えた。

沈黙。

重い沈黙。

誰も口を開かない。

最初に動いたのは――

瑞渓院だった。

「殿」

優しく言う。

「どうなさいますか?」

氏康は、書状を机に置いた。

そして、天井を見上げた。

しばらく、何も言わなかった。

やがて――

笑った。

低く。

愉快そうに。

「ふふ……」

重臣たちが驚く。

氏康は、書状を指で叩いた。

「面白い女よ」

大道寺政繁が問う。

「殿……これは、西国への出兵要請にございます」

氏康は首を振った。

「違う」

静かに言った。

「これは、出兵要請ではない」

重臣たちが息を呑む。

氏康は続けた。

「試しよ」

「試し……?」

松田憲秀が聞き返す。

氏康は頷いた。

「北条が、義で動くか」

その言葉は鋭かった。

関東の覇者――北条家。

彼らは、戦で関東を制した。

だが、狂犬はそれを知っている。

北条は、利だけで動く家ではない。

義もまた、重んじる家であることを。

瑞渓院が微笑んだ。

「殿」

「なんじゃ」

「行かれますか?」

氏康は、妻を見た。

長年連れ添った女。

誰よりも、氏康を理解する女。

「……行かぬ」

重臣たちが安堵の息をつきかけた――その時。

氏康は続けた。

「わしは、な」

そして、重臣たちを見渡した。

「だが――」

ゆっくりと。

はっきりと。

言った。

「志ある者は、行け」

甲斐と同じ答えだった。

重臣たちの目が変わる。

遠山綱景が、膝をついた。

「この綱景、行きとうございます」

大道寺政繁も。

「政繁も」

松田憲秀も。

「松田も、義に従いまする」

氏康は笑った。

「ははは!」

豪快に笑った。

「よい!」

そして立ち上がった。

「北条は動かぬ!」

声が響く。

「だが、北条の武士は動く!」

それが答えだった。

瑞渓院が、そっと言った。

「殿」

「なんじゃ」

「氏規を」

氏康の目が細くなる。

瑞渓院は続けた。

「狂犬殿のもとへ」

重臣たちがざわめく。

氏康は黙った。

考えていた。

狂犬。

あの女。

戦だけではない。

銭も。

海も。

人も。

すべてを見ている。

そして――

子を、愛している。

氏康は、小さく笑った。

「……よかろう」

重臣たちが驚く。

「氏規を、行かせる」

瑞渓院が微笑んだ。

「ありがとうございます」

氏康は書状を見た。

狂犬の朱印。

「狂犬よ」

呟いた。

「北条は、おぬしの義を見届けてやろう」

外では、風が吹いていた。

戦国の風だった。

祐筆・桃の日記

西暦1555年11月8日(弘治元年 十一月下旬) 鳴海城にて

本日、北条家にも姫様の書状が届いたとの報せが参りました。

氏康様は、北条としては動かぬが、志ある者は行けと仰せられたそうです。

これは――甲斐と同じ答え。

姫様は、命ではなく、義で人を動かしておられます。

武田も。

北条も。

命令では動かぬ者たちが、義で動こうとしております。

これがどれほどのことか。

姫様は、戦をしておられるのではございません。

時代を、動かしておられます。

そして――

氏規様が、姫様のもとへ来られるかもしれません。

姫様はきっと、優しく、そして厳しく育てられるでしょう。

あのお方は――

母であり、鬼であり、そして希望でございます。

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