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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第246話 「義の朱印、甲斐を震わせる」

弘治元年十一月

尾張国鳴海城

武田家

北条家

長尾家

御当主並びに重臣衆 御中

狂犬お市 朱印

一筆申し入れ候。

来月より開始の利根川治水につき、各家兵二万の御負担、誠に痛み入り候。

此の大事業、天下万民の安寧の基にて候。

然るに此度、西国において看過し難き事態出来候。

大寧寺の変、表向きは陶晴隆の謀反なれど、毛利元就これに深く関与せし証左、諸方より到来仕り候。

加えて、三条殿の御父君、姉君を失わしめし遠因ともなり候。

かかる不義、不忠、断じて許すべからず候。

また、豊後大友においては、人を売り銭と為す行い、民草の涙止まず候。

これらは、義に背き、天道に逆らうものにて候。

よって此度、狂犬お市、西国出兵を決断仕り候。

まず長門国下関・彦島を押さえ、火ノ山並びに門司和布刈に築城仕り、海峡の安寧を確立仕る所存に候。

なお、治水の後詰めにつきては、

桃、寧々、まつを総代として狂犬堂をもってこれを支え、滞りなきよう取り計らい候。

つきては、

義に準じ、共に不義を討たんと志す勇者あらば、

鳴海城へ参集されたく候。

九鬼水軍をもって、速やかに西国へ渡海せしむる用意あり候。

これは命ではなく、義の呼びかけにて候。

天道は見て候。

義は必ず勝つものにて候。

狂犬に続け。

以上。

狂犬お市(朱印)


西暦1555年11月6日(和暦:弘治元年 十一月下旬)

甲斐国 躑躅ヶ崎館

甲斐の空は、高く澄んでいた。

晩秋の風は乾き、南アルプスの峰々には、すでに白が混じり始めている。

躑躅ヶ崎館の庭では、落葉がさらさらと音を立てていた。

その静寂を破ったのは――

「鳴海より早馬にて、急書!」

館の門番の声だった。

武田の重臣たちは顔を上げた。

誰もが、その名を思い浮かべていた。

狂犬。

狂犬お市。

やがて、書状は主の手に渡る。

武田晴信――後の武田信玄。

彼は黙って封を見つめた。

朱印。

見慣れたそれでありながら、見るたびに胸の奥がざわつく。

「……来たか」

低く呟いた。

傍らにいた三条の方が、わずかに身を乗り出した。

「殿……」

晴信は封を切り、静かに読み始めた。

館の空気が変わる。

信繁、山県昌景、馬場信春、高坂昌信――

居並ぶ武田の柱たちも、息を潜めていた。

やがて、晴信の手が止まった。

沈黙。

そのまま、書状を三条の方に差し出した。

「読め」

三条の方は両手で受け取った。

その指先が、わずかに震えている。

文字を追う。

一文字一文字。

大寧寺の変。

父の死。

姉の死。

そして――

義。

読み終えた時、三条の方の目は潤んでいた。

「……あの方は……」

声が震える。

「覚えていてくださったのですね……」

彼女の父――三条公頼は、大寧寺の変の余波の中で命を落とした。

京の公家でありながら、戦国の濁流に呑まれた一人だった。

狂犬お市は、それを「義」として書いた。

政治ではない。

利でもない。

義。

それが、三条の方の胸を撃った。

晴信は黙っていた。

やがて、信繁が口を開いた。

「兄上……」

晴信は視線を上げた。

信繁の目は、燃えていた。

「これは……」

言葉を選ぶ。

「……命ではございませぬな」

晴信は、かすかに笑った。

「命ではない」

そして、書状の最後を指で叩いた。

「義の呼びかけ、だ」

その言葉は重かった。

武田は、命で動く軍ではない。

義で動く軍である。

それが、甲斐の誇りだった。

山県昌景が腕を組んだ。

「しかし、西国は遠うござる」

現実的な声。

「兵を動かせば、信濃、越後への備えが薄くなりまする」

馬場信春も頷く。

「長尾景虎殿も、静観とは限りませぬ」

だが――

その時だった。

三条の方が、顔を上げた。

涙は、もうなかった。

代わりにあったのは――炎だった。

「殿」

晴信を見る。

「これは、義にございます」

館の空気が止まる。

「我が父の仇討ちを願うてはおりませぬ」

静かな声。

「しかし――」

一歩、進み出た。

「義に応じぬ武田であれば、それは武田ではございませぬ」

重臣たちが、息を呑んだ。

晴信は、三条の方を見つめた。

長い沈黙。

やがて――

笑った。

「……はは」

小さな笑い。

そして――

立ち上がった。

「誰が行く」

その一言。

命令ではない。

問いだった。

だが、その問いの意味は、全員が理解していた。

信繁が即座に膝をついた。

「この信繁、参りまする」

迷いはない。

山県昌景が続いた。

「昌景も」

馬場信春も。

「不死身の鬼美濃、義のために」

高坂昌信も。

「弾正も参ります」

晴信は、彼らを見渡した。

頼もしき者たち。

そして――

静かに言った。

「兵は出さぬ」

一瞬の驚き。

だが、晴信の目は笑っていた。

「志ある者のみ、行け」

それは、狂犬への答えだった。

義には、義で応じる。

三条の方が、深く頭を下げた。

「殿……」

晴信は、空を見上げた。

遠い西。

狂犬が、牙を剥いている。

「面白い」

呟いた。

「実に、面白い」

戦国は今――

動いていた。

祐筆・桃の日記

西暦1555年11月6日(弘治元年 十一月下旬) 鳴海城にて

本日、甲斐に届けた姫様の書状が、晴信様のもとに届いたとの報せが参りました。

三条の方様が、涙を流されたと聞きました。

姫様は、あのお方の父君のことを、義として書かれました。

姫様は、忘れません。

誰の涙も。

誰の痛みも。

それが、姫様の恐ろしさであり――優しさでございます。

晴信様は、兵は出さぬが、志ある者は行け、と仰せられたそうです。

命ではなく、義。

姫様の戦は、銭でも土地でもなく、義で人を動かしております。

それが、どれほど恐ろしいことか。

そして――

どれほど美しいことか。

戦が、始まります。

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