表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

243/364

第241話 「鳴海帰還。鮭鍋は笑い、怪物は目を覚ます」


西暦1555年11月2日(和暦:弘治元年 十一月上旬)

尾張・鳴海城 評定の間/晩秋 風は冷たく、城下は灯りが多い

 駿河から鳴海へ――たった一つ城主が戻るだけで、城は“祭り”になる。

 鳴海城の評定の間は、普段なら静まり返る場所だ。奉行が座り、同心が控え、帳簿の紙音だけが響く。ところが今日は違った。

 襖が開くや、まず飛び込んだのは――人ではない。

「……アゥ」

 白っぽい子狼が、ちょこんと評定の間に鼻を突っ込み、次いで雌の二匹が続く。生後八か月、足取りはまだ子供で、しかし目はもう“狼”だった。

「狼が評定の間を歩く世の中になったか……」

 鳴海奉行が遠い目をした瞬間、

「世の中は進むのじゃ」

 狂犬お市様が、さらりと入ってきた。

 続いて、蝦夷の土産が雪崩れ込む。熊皮の敷物、鹿皮、トド皮、塩鮭、塩ホッケ、塩ニシン、鹿角、樽、樽、樽。昆布は束で立てかけられ、薬草の包みが積まれ、最後に“モモンガ桃”が桃の肩からひょこっと顔を出す。

「評定の間が倉じゃ……!」

 太助が呻いた。

「倉じゃないです!」

 寧々が即ツッコミを入れつつ、場の混乱を素早く整えていく。着付けも商いも段取りも、寧々は強い。

 そこへ――

「元康っ……!」

 おだいの方が、泣きながら突進した。

「母上……!」

 元康が頭を下げる前に、両手でがっちり掴まれる。

「無事で! 無事で!」

 ぶんぶんぶんぶん。

「母上、手が……手が痛いです!」

 元康の上体が揺れ、評定の間が笑いと涙の渦になった。

 水野信元が肩を揺らしながら、ぽつり。

「さすがだいどの。三河の武士より腕力あるんとちゃうか」

「叔父上、笑ってないで助けてください……」

「無理や。母は“主命”や」

 そこへ、利家がまつの隣で小さく咳払いをした。

 まつは泣き笑いの顔のまま、利家の脛を軽く踏む。

「……久しぶりやのに、距離感それ? 脛で返事すなや」

「返事じゃない、踏まれたんだ……」

「踏んだんや。言い訳すな」

 慶次は慶次で、狼の子が自分の草履を嗅ぐのを見て、妙に真剣な顔になる。

「……こいつら、俺より格上の匂いがする」

「それはお前が昨日、今川焼き三つ食べたからだ」

 忠次の冷静なツッコミに、慶次がうるっとした。

「忠次……正論は刃物だ」

 その混沌の中心で、お市様は一度だけ周りを見渡した。

 泣いている者、笑っている者、歯を食いしばって耐えていた者。留守番組の顔ぶれが揃っている。

「……よし」

 お市様は短く言った。

「無礼講じゃ」

 次の言葉が、鳴海城の胃袋を支配した。

「鮭ちゃんこ鍋じゃ!!」

「おおおおお!」

 旗本先手役が吠え、同心が拳を上げ、台所が一斉に動く。昆布と鰹節の香りが立つと、それだけで空腹が勝ち始める。蝦夷の塩鮭が鍋に落ちた瞬間、脂の匂いが湯気に混じり、皆の腹が鳴った。

「姫様……蝦夷、うまいですね……」

 千代が目を潤ませる。

「当然じゃ」

 お市様は当然の顔でうなずいた。

「“寒い地ほど飯がうまい”――戦国小ネタじゃ。兵は腹が減るとすぐ揉める。腹が満ちると、だいぶ人になる」

「姫様、うちの鳴海は暖かいですけど揉めますよ?」

 太助が余計なことを言う。

「黙れ太助」

「はい!」

 酒が回り、笑いが回り、涙も回った。

 そして“いい感じ”になった瞬間を、お市様は逃さない。

「――報告」

 箸が止まり、杯が止まり、空気が一斉に締まる。

 宴の中に評定を差し込むのが狂犬流だ。

「留守番組。順に申せ。寧々」

 寧々が立つ。背筋がきれいだ。

「はい。狂犬化粧品の売れ筋は秋口から白粉と香。姫様の“帰還ライブ”の噂で、衣装布と化粧道具が東海道沿いで売れております。商人が先走っています」

「目ざといのは良い」

 お市様が淡々。

「先走りは責めぬ。責めるのは横着だけじゃ」

「あと、黒テン外套の試作が進んでます。……姫様、熊の着ぐるみは本当に作りますか?」

「作る」

「作るんですね……」

 まつが立つ。

「まつや本店、女性幹部教育は順調やけど……姫様、武田の“つつじ”が港町に出店攻勢してきました。あれ、兵法です。店が“風林火山”してます」

「風の如く出店し、林の如く店を並べ、火の如く売上を上げ、山の如くファンを離さぬ――」

 お市様が面白そうに笑う。

「甲州の奥方衆、やりおる」

「甲州言うたら味噌も強いし、ほうとうも強いし、うどんも強いし……」

 まつがぶつぶつ言うと、利家がぼそり。

「まつ、戦より食の話になると長い」

「当たり前や。食は天下や」

 桃が立つ。祐筆の顔だ。

「狂犬銭の流通、滞りありません。鳴海・熱田・津島・駿府の帳合い差異も吸収済み。融資と返済の循環も安定しております」

「よし」

 お市様の声が少し低くなる。

「銭が回れば、奪う理由が減る。奪う理由が減れば、戦が減る。……桃、よく持ちこたえたの」

 桃は一礼しただけで、余計なことを言わない。

 その沈黙が、逆に重みを持つ。

 おだいの方、水野、岡部、千代、太助と報告が続く。

 診療所の薬棚、鍛冶場の火、港の荷の流れ。鳴海は回っていた。留守番組は、ちゃんと守っていた。

 そして最後に――三人が立つ。

 百地さくら、藤林あやめ、服部せつな。伊賀の影。

「診療所、異常なし」

 あやめが短く言う。

「全国諜報、足を増やしました。商人、旅僧、舟子――動くものに糸を通しました」

 さくらが淡々と続ける。

 せつなが一拍置いた。

 その一拍で、鍋の湯気だけが音になる。

「……最後に、重大」

 声が硬い。

「先月。安芸、厳島にて――毛利元就が、大内家の陶晴隆を撃破」

 評定の間の空気が、底冷えした。

 戦国は、遠い話ではない。情報ひとつで国の運命が変わる。

 お市様の表情が、すっと消えた。

 宴の顔が、評定の顔に塗り替わる。

「……チッ」

 舌打ちが小さいのに、よく響いた。

「怪物が一匹、世に出たか」

 元康が息を飲む。藤吉郎が笑いを引っ込める。忠次は杯を見た。

 利家と慶次も、ようやく“酒の席”から戻ってくる。

 お市様が立った。

 そして、わざと軽く言った。

「元康、藤吉郎、忠次、利家、慶次」

「はっ」

「……しこたま酒を飲め」

「姫様、それ命令の方向が間違ってません?」

 藤吉郎が言いかけるが、

「飲め」

 お市様の一言で終わる。

 慶次が小声で忠次に囁く。

「これ、楽しく飲む酒じゃないな」

「今さら気づいたのですか」

「正論は刃物だって言ったろ」

 五人は飲んだ。

 杯が重くなるほど、場が静かになるほど、皆が理解していく。

 これから渡される主命は――“宴の続き”じゃない。

 頃合いを見て、お市様が言った。

「よい」

 そして淡々と告げる。

「今宵、わらわの部屋に来い。主命を渡す」

 一拍置いて、さらに釘を刺す。

「しこたま飲め。肝を据えるためじゃ。怖いものは怖い。怖いまま動けるようにしてやる」

 鳴海の夜は、鍋の湯気で温かい。

 けれど、この瞬間から――城はまた、戦国の冷えに戻った。

祐筆・桃の日記(西暦1555年11月2日/弘治元年 十一月上旬)

 姫様が鳴海へお戻りになりました。評定の間が、泣き笑いと蝦夷の土産でいっぱいになりました。

 おだい様が元康様の手を掴んで、ぶんぶん振っておられました。元康様は困っておられましたが、目が少し潤んでいて、私も胸が熱くなりました。

 鮭ちゃんこ鍋は、本当に美味しかったです。昆布と鰹の香りが強く、塩鮭の脂が甘くて、皆が「生き返る」と言いました。

 姫様は笑っておられました。久しぶりに、城が明るかったです。

 けれど、伊賀の三人の報せで空気が変わりました。

 厳島。毛利元就。陶晴隆撃破。

 姫様の舌打ちは小さいのに、心に刺さりました。「怪物が一匹」と。

 姫様は、元康様たち五人に「しこたま酒を飲め」と命じられました。宴の酒ではなく、主命の酒です。

 今夜、姫様のお部屋で主命が渡されます。

 私は祐筆として、筆を整え、灯を整えます。

 姫様が次に何をなさるのか――書き落とさぬように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ