第241話 「鳴海帰還。鮭鍋は笑い、怪物は目を覚ます」
西暦1555年11月2日(和暦:弘治元年 十一月上旬)
尾張・鳴海城 評定の間/晩秋 風は冷たく、城下は灯りが多い
駿河から鳴海へ――たった一つ城主が戻るだけで、城は“祭り”になる。
鳴海城の評定の間は、普段なら静まり返る場所だ。奉行が座り、同心が控え、帳簿の紙音だけが響く。ところが今日は違った。
襖が開くや、まず飛び込んだのは――人ではない。
「……アゥ」
白っぽい子狼が、ちょこんと評定の間に鼻を突っ込み、次いで雌の二匹が続く。生後八か月、足取りはまだ子供で、しかし目はもう“狼”だった。
「狼が評定の間を歩く世の中になったか……」
鳴海奉行が遠い目をした瞬間、
「世の中は進むのじゃ」
狂犬お市様が、さらりと入ってきた。
続いて、蝦夷の土産が雪崩れ込む。熊皮の敷物、鹿皮、トド皮、塩鮭、塩ホッケ、塩ニシン、鹿角、樽、樽、樽。昆布は束で立てかけられ、薬草の包みが積まれ、最後に“モモンガ桃”が桃の肩からひょこっと顔を出す。
「評定の間が倉じゃ……!」
太助が呻いた。
「倉じゃないです!」
寧々が即ツッコミを入れつつ、場の混乱を素早く整えていく。着付けも商いも段取りも、寧々は強い。
そこへ――
「元康っ……!」
おだいの方が、泣きながら突進した。
「母上……!」
元康が頭を下げる前に、両手でがっちり掴まれる。
「無事で! 無事で!」
ぶんぶんぶんぶん。
「母上、手が……手が痛いです!」
元康の上体が揺れ、評定の間が笑いと涙の渦になった。
水野信元が肩を揺らしながら、ぽつり。
「さすがだいどの。三河の武士より腕力あるんとちゃうか」
「叔父上、笑ってないで助けてください……」
「無理や。母は“主命”や」
そこへ、利家がまつの隣で小さく咳払いをした。
まつは泣き笑いの顔のまま、利家の脛を軽く踏む。
「……久しぶりやのに、距離感それ? 脛で返事すなや」
「返事じゃない、踏まれたんだ……」
「踏んだんや。言い訳すな」
慶次は慶次で、狼の子が自分の草履を嗅ぐのを見て、妙に真剣な顔になる。
「……こいつら、俺より格上の匂いがする」
「それはお前が昨日、今川焼き三つ食べたからだ」
忠次の冷静なツッコミに、慶次がうるっとした。
「忠次……正論は刃物だ」
その混沌の中心で、お市様は一度だけ周りを見渡した。
泣いている者、笑っている者、歯を食いしばって耐えていた者。留守番組の顔ぶれが揃っている。
「……よし」
お市様は短く言った。
「無礼講じゃ」
次の言葉が、鳴海城の胃袋を支配した。
「鮭ちゃんこ鍋じゃ!!」
「おおおおお!」
旗本先手役が吠え、同心が拳を上げ、台所が一斉に動く。昆布と鰹節の香りが立つと、それだけで空腹が勝ち始める。蝦夷の塩鮭が鍋に落ちた瞬間、脂の匂いが湯気に混じり、皆の腹が鳴った。
「姫様……蝦夷、うまいですね……」
千代が目を潤ませる。
「当然じゃ」
お市様は当然の顔でうなずいた。
「“寒い地ほど飯がうまい”――戦国小ネタじゃ。兵は腹が減るとすぐ揉める。腹が満ちると、だいぶ人になる」
「姫様、うちの鳴海は暖かいですけど揉めますよ?」
太助が余計なことを言う。
「黙れ太助」
「はい!」
酒が回り、笑いが回り、涙も回った。
そして“いい感じ”になった瞬間を、お市様は逃さない。
「――報告」
箸が止まり、杯が止まり、空気が一斉に締まる。
宴の中に評定を差し込むのが狂犬流だ。
「留守番組。順に申せ。寧々」
寧々が立つ。背筋がきれいだ。
「はい。狂犬化粧品の売れ筋は秋口から白粉と香。姫様の“帰還ライブ”の噂で、衣装布と化粧道具が東海道沿いで売れております。商人が先走っています」
「目ざといのは良い」
お市様が淡々。
「先走りは責めぬ。責めるのは横着だけじゃ」
「あと、黒テン外套の試作が進んでます。……姫様、熊の着ぐるみは本当に作りますか?」
「作る」
「作るんですね……」
まつが立つ。
「まつや本店、女性幹部教育は順調やけど……姫様、武田の“つつじ”が港町に出店攻勢してきました。あれ、兵法です。店が“風林火山”してます」
「風の如く出店し、林の如く店を並べ、火の如く売上を上げ、山の如くファンを離さぬ――」
お市様が面白そうに笑う。
「甲州の奥方衆、やりおる」
「甲州言うたら味噌も強いし、ほうとうも強いし、うどんも強いし……」
まつがぶつぶつ言うと、利家がぼそり。
「まつ、戦より食の話になると長い」
「当たり前や。食は天下や」
桃が立つ。祐筆の顔だ。
「狂犬銭の流通、滞りありません。鳴海・熱田・津島・駿府の帳合い差異も吸収済み。融資と返済の循環も安定しております」
「よし」
お市様の声が少し低くなる。
「銭が回れば、奪う理由が減る。奪う理由が減れば、戦が減る。……桃、よく持ちこたえたの」
桃は一礼しただけで、余計なことを言わない。
その沈黙が、逆に重みを持つ。
おだいの方、水野、岡部、千代、太助と報告が続く。
診療所の薬棚、鍛冶場の火、港の荷の流れ。鳴海は回っていた。留守番組は、ちゃんと守っていた。
そして最後に――三人が立つ。
百地さくら、藤林あやめ、服部せつな。伊賀の影。
「診療所、異常なし」
あやめが短く言う。
「全国諜報、足を増やしました。商人、旅僧、舟子――動くものに糸を通しました」
さくらが淡々と続ける。
せつなが一拍置いた。
その一拍で、鍋の湯気だけが音になる。
「……最後に、重大」
声が硬い。
「先月。安芸、厳島にて――毛利元就が、大内家の陶晴隆を撃破」
評定の間の空気が、底冷えした。
戦国は、遠い話ではない。情報ひとつで国の運命が変わる。
お市様の表情が、すっと消えた。
宴の顔が、評定の顔に塗り替わる。
「……チッ」
舌打ちが小さいのに、よく響いた。
「怪物が一匹、世に出たか」
元康が息を飲む。藤吉郎が笑いを引っ込める。忠次は杯を見た。
利家と慶次も、ようやく“酒の席”から戻ってくる。
お市様が立った。
そして、わざと軽く言った。
「元康、藤吉郎、忠次、利家、慶次」
「はっ」
「……しこたま酒を飲め」
「姫様、それ命令の方向が間違ってません?」
藤吉郎が言いかけるが、
「飲め」
お市様の一言で終わる。
慶次が小声で忠次に囁く。
「これ、楽しく飲む酒じゃないな」
「今さら気づいたのですか」
「正論は刃物だって言ったろ」
五人は飲んだ。
杯が重くなるほど、場が静かになるほど、皆が理解していく。
これから渡される主命は――“宴の続き”じゃない。
頃合いを見て、お市様が言った。
「よい」
そして淡々と告げる。
「今宵、わらわの部屋に来い。主命を渡す」
一拍置いて、さらに釘を刺す。
「しこたま飲め。肝を据えるためじゃ。怖いものは怖い。怖いまま動けるようにしてやる」
鳴海の夜は、鍋の湯気で温かい。
けれど、この瞬間から――城はまた、戦国の冷えに戻った。
祐筆・桃の日記(西暦1555年11月2日/弘治元年 十一月上旬)
姫様が鳴海へお戻りになりました。評定の間が、泣き笑いと蝦夷の土産でいっぱいになりました。
おだい様が元康様の手を掴んで、ぶんぶん振っておられました。元康様は困っておられましたが、目が少し潤んでいて、私も胸が熱くなりました。
鮭ちゃんこ鍋は、本当に美味しかったです。昆布と鰹の香りが強く、塩鮭の脂が甘くて、皆が「生き返る」と言いました。
姫様は笑っておられました。久しぶりに、城が明るかったです。
けれど、伊賀の三人の報せで空気が変わりました。
厳島。毛利元就。陶晴隆撃破。
姫様の舌打ちは小さいのに、心に刺さりました。「怪物が一匹」と。
姫様は、元康様たち五人に「しこたま酒を飲め」と命じられました。宴の酒ではなく、主命の酒です。
今夜、姫様のお部屋で主命が渡されます。
私は祐筆として、筆を整え、灯を整えます。
姫様が次に何をなさるのか――書き落とさぬように。




