第239話 「小田原、女の同盟は城より堅い」
西暦1555年10月30日(和暦:弘治元年 十月下旬)
相模国・小田原城/秋 潮風、乾いた日差し
駿府の狂犬堂商館を発った北条一行は、東海道を戻り、小田原へ帰ってきた。
港の匂いは駿河より強く、潮が鎧の隙間まで入り込む。
「……帰ったぞ」
北条氏康は短く言い、城下を見下ろした。
平時の小田原は、戦の城というより“商いの城”だ。相模の海産物、関東の米、箱根を越える旅人――銭の流れが見える。
だが今は、その銭の流れの中心に“狂犬”という異物が差し込まれている。
御殿に入ると、氏康はすぐ瑞渓院に振り向いた。
「瑞渓院。……駿府で、何を話した」
「殿、まずはお茶にいたしましょう」
「茶は後だ。狂犬と三条の方、あの三者会談だ。お前は聞いておる。俺にも話せ」
瑞渓院は、す、と背筋を伸ばす。
その顔は、武家の妻ではなく――同盟者の顔だった。
「話せませぬ」
「……は?」
「話せませぬ」
氏康は一歩近づく。
「北条の当主に、話せぬと申すか」
「はい。オナゴの同盟にございますので」
さらりと言い切る。
言い方が、完全に狂犬寄りである。
「オナゴの同盟……」
「殿、悔しければ、奥方の輪に入ってくださいませ」
「入れるか!」
瑞渓院は微笑んだ。
笑っているが、目は笑っていない。城主が一番恐れるタイプの奥方である。
「殿」
「なんだ」
「それより大事な話がございます」
瑞渓院は、音を立てずに畳へ膝をつき、扇子を閉じた。
「桃殿が、六年後に嫁入りでございます」
「……桃?」
氏康の眉が動く。
狂犬銭を回し、五か国連合の借金も融資も、銭鋳造も職人も――あれやこれやを“胃を痛めながら”回している、あの祐筆の娘だ。
「桃殿が嫁入り?」
「はい。狂犬殿の口ぶりでは、すでに道筋を作っております」
「……あの狂犬め。勝手に人生を配るな」
瑞渓院は肩をすくめる。
「殿、勝手に配るから狂犬でございます」
「開き直るな」
瑞渓院は、そこで少し声を落とした。
「北条が嫁にもらい、さらなる発展のために――“息子の嫁”にいたしましょう」
氏康は黙る。
政治の匂いが濃くなる。
「……誰に嫁がせる気だ」
「候補はございます」
瑞渓院は指を折るように言う。
「氏政は十七。次の北条の当主になります」
「うむ」
「氏照は十三」
「うむ」
「氏邦は七」
「……七は早い」
氏康が突っ込むと、瑞渓院は涼しい顔で返した。
「“早い”と言っているうちは、殿はまだ優しい」
「お前が怖いわ!」
瑞渓院は、最後に言った。
「そして――氏規は十歳」
「氏規……」
氏康は、ふっと思い出す。
あの子は、まだ角が立っていない。賢いが、過剰に尖っていない。素直に伸びる余地がある。
瑞渓院は続ける。
「狂犬殿に鍛えてもらう“あととり”ですが、幼いながら氏規がよろしいかと存じます」
「狂犬に預けるのか」
「はい」
氏康の視線が鋭くなる。
「……なぜ氏規だ」
「松平元康殿が、人質時代に氏規と面識がございます」
「確かに」
元康――今は狂犬の側近。
その元康が“知っている”は、狂犬の中での扱いが変わる。戦国の小ネタだが、こういう縁は馬鹿にならない。
瑞渓院は、さらに畳みかけた。
「それに、女の勘でございますが」
「出た、女の勘」
「狂犬殿は、子供好きでございます」
「……医者だしな」
「はい。病を治し、飯を食べさせ、鍛えます。戦国でこれほど“母”になれる者はおりませぬ」
氏康は、思わず鼻で笑った。
「母、だと? あの狂犬が」
「殿、狂犬殿は“母になれる”のです。だから怖いのです」
その一言で、氏康は黙った。
狂犬お市――戦も商いも医術も、歌も宴会も、すべてを“自分の場”に変える女。
そして次は、“次代の子”を作る。
氏康は、庭の方をちらりと見た。
風が松を鳴らし、潮が遠くで砕ける。
「……瑞渓院」
「はい」
「お前は、狂犬に惚れたか」
「惚れてはおりませぬ」
「なら、なぜここまで」
「北条を残すためでございます」
真っ直ぐな声だった。
氏康は、そこでようやく理解する。瑞渓院は狂犬に“従う”気はない。
だが狂犬の作る仕組みに、“北条を最良の位置で載せる”つもりなのだ。
「……氏政は当主になる」
「はい」
「氏照は、まだ若い」
「はい」
「氏邦は、まだ七だ」
「はい」
瑞渓院は一つも揺らがない。
そして、畳に手をついて、最後を告げた。
「氏規を出しましょう。狂犬殿のもとへ」
「……決めるのは俺だ」
「ええ。ですが殿」
瑞渓院の笑みは、刃のように澄んでいた。
「決めるなら、“今”でございます。狂犬殿は、待ちませぬ」
「……くっ」
氏康は、負けを認めたわけではない。
ただ、潮の匂いの中で――時代の匂いを嗅いだ。
「氏規を呼べ」
「はい」
廊下に気配が走る。
北条の城が、静かに次代へ動き始める。
氏康は小さく呟いた。
「……桃を嫁に、か」
瑞渓院が即座に返す。
「殿、桃殿は銭の心臓でございます。北条が握れば、関東の治水も、港も、すべてが“北条の息”で動きます」
「口が悪いぞ」
「現実が口が悪いのです」
氏康は、笑った。
久しぶりに、腹の底から。
「……狂犬に負ける気はない」
「なら、並びましょう。殿」
「並ぶ?」
「はい。狂犬の隣に」
武将のプライドが疼く言葉だ。
だが今の関東は、プライドだけでは守れない。
氏康は、扇子を取り、静かに開いた。
「よし。氏規を預ける。ただし――北条の名を折らせるな」
「もちろん。名は捨てぬと、狂犬殿は申されました」
氏康は、ふっと息を吐く。
「……ならば、賭けてみるか。狂犬の次代に」
潮風が、御殿の簾を揺らした。
小田原は、戦の城であり――未来を仕込む城になっていく。
祐筆・桃の日記(西暦1555年10月30日/弘治元年 十月下旬)
北条様が駿府より小田原へお帰りになったと聞きました。瑞渓院様が、狂犬様と三条の方様との三者会談を「オナゴの同盟ゆえ話せませぬ」と押し切ったそうで、さすが瑞渓院様です。殿が気の毒ですが、殿は殿で強い方なので、たぶん大丈夫です。
しかし、私の六年後の嫁入りの話が、すでに北条の奥方様の中で進んでいると聞き、背筋が冷えました。私は独身を望んでおりますが、狂犬様は望みを尊重する顔で、平然と道を作ります。怖いです。
また、北条の御子・氏政様(十七)、氏照様(十三)、氏邦様(七)、氏規様(十歳)の話が出たとも聞きました。狂犬様のもとへ鍛えに出すなら氏規様が良い、とのこと。松平元康様が面識があり、狂犬様は子供好きで医者でもあるから――と。
銭を回す手が止まれば、世は回りませぬ。
私は今日も帳面を閉じ、胃薬の代わりに深呼吸をいたしました。
……逃げ道は、まだ見つかりませぬ。




