第238話「奥方密談。白粉と胃薬と、女の戦」
西暦1555年10月26日(和暦:弘治元年 十月下旬)
駿河・駿府 武田商館 → 奥の小座敷/秋晴れ
評定の間に漂っていた“工事の匂い”が、ようやく薄れはじめた頃。
畳の上で、武田と北条の家臣たちがそれぞれ礼を整え、ざわりと立ち上がる。
「では、晴信公。氏康公。来月から地獄じゃ、頼んだぞ」
狂犬お市様が、軽く言う。
「“地獄じゃ”を挨拶に使うな」
氏康が低く突っ込み、晴信は肩で笑った。
「姫様は、地獄を“段取り”で塗り替えるお方よ」
三条の方が扇を閉じながら言うと、瑞渓院が頷く。
「段取りは女の武器。……男は、やっと気づき始めた」
「遅いの」
お市様が笑う。笑顔が美しすぎて、逆に怖い。
藤吉郎は、地図を巻きながら汗を拭いた。
「では、姫様。こちらは失礼を――」
「待て」
お市様の声が、すっと温度を落とした。
全員の動きが止まる。
お市様は、晴信と氏康ではなく――奥方二人を見た。
「三条殿、瑞渓院殿。奥方二人だけに話がある」
「……ほう?」瑞渓院が眉を上げる。
「別部屋で、よいかの」
その瞬間、男衆の背中が“壁”になった。
――入ってはいけない空気。
男が戦で作る結界より、女が会話で作る結界のほうが強い。
「お、おい、藤吉郎」
晴信が小声で呼ぶ。
「おぬし、聞いておらぬだろうな?」
「聞いてません! 聞ける顔してません!」
「顔が既に聞いた顔だ」
「それは胃痛の顔です!!」
忠次は、完全に無表情で藤吉郎の襟をつまみ、出口へ向けて押し出した。
氏康も同じく、氏照と氏邦の頭を軽く叩く。
「奥へ行くな。行けば死ぬ」
「父上、それ戦の忠告じゃなくて家庭の忠告ですよね?」
「両方だ」
評定の間には、女三人と――祐筆の桃だけが残った。
桃は筆箱を抱え、心の中で正座した。
(わたし、空気になれ。空気になれ。……でも書け)
お市様は、扇で「こちら」と示し、奥の小座敷へ二人を導いた。
襖が静かに閉まる。
そこから先は、男の世界ではない。
小座敷には、香が焚かれていた。
お市様の勝負香――香水『お市』の余韻に、白粉のやわらかい匂いが混じる。
「まずは、座れ」
お市様が言うと、三条の方と瑞渓院は素直に座った。
素直だが、油断はしていない。目が戦の目だ。
「姫様。奥方二人“だけ”とは、贅沢ですわね」
三条の方が微笑む。
「利根川より怖い話でしたら、先に言ってください。心の堤防を用意します」
瑞渓院が真顔で言う。
「利根川より怖い話は無い」
お市様が即答した。
「……と、思うておったが、あった」
二人の扇が同時に止まる。
「女の話じゃ」
お市様が、風呂敷包みを畳に置いた。
それは、今日土産に持ってきた“新しい白粉”の包み――ではない。
白粉の包みは、すでに評定の間で奥方に渡している。
別包みだ。
桃は、喉が鳴りそうになるのを必死に堪えた。
「……姫様。まだ“隠し玉”が?」
三条の方の声が少しだけ硬い。
「隠し玉は女の作法じゃ」
お市様が悪びれずに言う。
瑞渓院が扇で口元を隠した。
「作法で胃が痛くなるのは、姫様の周りだけです」
「よい。先に言う」
お市様が、いつもの軽口を一度切った。
ここから本題だ。
「桃は、狂犬銭の管理・発行・融資の根を握っておる」
二人が黙って頷く。そこは理解している。
「今はよい。桃が若い。頭も回る。悪い男に引っかからぬ」
桃が小さく息を止める。
(悪い男……? え、どれ……? 世の中全部……?)
「だがのち、桃が老いる。あるいは、倒れる」
お市様が淡々と言う。
「その時、銭が止まれば、治水も止まる。兵も止まる。港も止まる。商も止まる」
「……連合が止まります」
三条の方が静かに言った。
「そうじゃ」
お市様が頷く。
瑞渓院が、じっとお市様を見る。
「それを防ぐために、“後継”の話をしたのですね」
「そうじゃ。だが――男に任せぬ」
「……なぜ?」
「男は、腹を切る」
お市様の言葉は短く、重い。
三条の方が扇を握り直した。
「責任を、血で払う」
「血で払うのは簡単じゃ。銭で払うのは難しい」
お市様は、畳を指でとんと叩いた。
「桃の仕事は、難しいほうじゃ。難しい仕事ほど、“恨み”が残る」
瑞渓院が、ふっと鼻で笑う。
「恨まれるのが嫌で、女を使うのですか?」
「違う」
お市様が即答し、瑞渓院を真っ直ぐ見る。
「女は“恨みを抱えて生きる”のに慣れておる。男は“恨みを切って終わらせる”」
瑞渓院の目が細くなる。
三条の方は息を吐いた。
その言葉の痛みが、身に覚えがある種類だからだ。
「つまり……」
三条の方が言う。
「桃の後継は“女”で、しかも、武田か北条から出せ、と」
「そうじゃ」
「姫様、言い方が乱暴です」
「乱暴に言わねば、男が間に入って台無しにする」
「そこは同意です」
瑞渓院が即答した。
お市様は、包みを少しだけ開いて見せた。
中身は、紙束――帳面の雛形、印判の控え、融資の契約文言、偽造防止の手順、銭鋳の工房管理の掟。
つまり、“狂犬金融の書”の抜粋。
「これを、桃の下で学ばせる」
お市様が言う。
「任期は三年。二回まで。計六年」
「長い」瑞渓院。
「短い」三条の方。
二人の答えが割れて、お市様が笑った。
「だから奥方を呼んだ」
「男どもは“長い短い”で揉めるだけ」
「女は“何を学ばせるか”を詰める」
瑞渓院が姿勢を正した。
「条件を聞きます。姫様」
「よいぞ」
「第一。横領と不正は即刻、処断」
「もちろんじゃ」
「第二。出した家に返さぬ、という言葉……それは脅しですか?」
「保護じゃ」
お市様の目が、鋭くなった。
「家に戻れば、必ず“引き抜き”と“口封じ”が起きる。銭を握った女は、家でも敵になる」
三条の方が頷く。
「……だから嫁がせて“居場所”を作る」
「そうじゃ。嫁ぎ先は武田か北条か、狂犬の誰か」
「誰か、とは?」
瑞渓院が畳みかける。
お市様は一拍置いて、桃を見た。
桃は背筋が凍る。筆が震える。
「そこは、奥方の仕事じゃ」
お市様がさらりと言う。
「“数字の女”は、数字に殺されぬよう、家で守る」
「……姫様」
三条の方が苦笑した。
「それは、戦より難しい“縁組”ですわ」
「難しいのが好きじゃろ?」
「好きではありません」
「だが、やる」
「……やります」
三条の方の声が、覚悟の声になった。
瑞渓院は、扇を閉じて言った。
「姫様。北条は“使える女”を惜しみます。出すなら、こちらも条件を」
「言え」
「学んだ者の安全。退任後の生活。名誉。――それと」
瑞渓院の目が細く笑う。
「桃殿本人の意思を、必ず聞くこと」
桃が、思わず顔を上げる。
三条の方も頷いた。
お市様は、少しだけ目を丸くして――すぐに笑った。
「それが言えるから、奥方を呼んだ」
お市様は扇で、桃をちょいちょいと指す。
「桃。言え」
「……は、はい」
桃の声が裏返りそうになる。
「わ、わたくしは……」
言葉が詰まる。
瑞渓院が優しく言った。
「怖いのは当然。けれど、あなたは“銭の根”を握っているのよ」
三条の方も続けた。
「根を握る者は、根に絡まる縁も握るのです」
(縁……胃が……)
桃は心で泣き、口で言った。
「……仕事は、続けます。守りも、必要です。ですが」
桃はお市様を見る。
「“勝手に決められる”のは、嫌です」
部屋が静かになる。
お市様は、少しだけ目を細めた。
「よい」
短く言って、頷く。
「勝手に決めぬ。だが、勝手に逃げるのも許さぬ」
「……はい」
「逃げるなら、勝って逃げろ」
「意味が分かりません……」
「わらわの言葉じゃ。慣れろ」
瑞渓院が笑った。
三条の方も笑った。
桃だけが、胃を押さえた。
お市様は立ち上がり、襖へ向かう。
「奥方二人、頼むぞ」
「姫様」
三条の方が呼び止める。
「姫様は……桃を“嫁に出す”と言いましたね」
「言うた」
「それは、桃を“守る”ためですか。それとも――連合を“守る”ためですか」
お市様は襖の前で振り返った。
香水『お市』が、ふわりと揺れる。
「両方じゃ」
そして、悪びれずに付け足す。
「守るものが二つあるほうが、女は強い」
襖が閉まった。
残された三人は、しばし無言。
やがて瑞渓院が、ぽつりと言った。
「……姫様。あれは、治水より手強いわね」
三条の方が頷く。
「利根川は曲げられても、女心は曲がりません」
桃は震える声で言った。
「……わたし、今、利根川になりたいです」
「無理ね」
「ええ、無理ですわ」
二人が同時に返し、桃は胃を押さえた。
女の戦が、今ここで始まった。
刀も槍も使わない。
けれど、戦より怖い“縁”の話が、静かに転がり出していた。
祐筆桃の日記(西暦1555年10月26日/弘治元年 十月下旬)
会議が終わり、皆が帰ろうとした時、姫様は奥方二人だけを別部屋へ呼んだ。私は、書く係なので付いて行った。逃げ場は無い。襖が閉まった瞬間、空気が変わった。男衆の評定の間より怖い。女三人の部屋は、静かで、よく刺さる。
姫様は、私の後継を“女”にすると言った。武田か北条から出せ、と。任期は三年、二回までで六年。退いたら嫁に出す、と。私は、筆を落としそうになった。胃も落ちた。
奥方様たちは、条件を詰めた。横領は即処断、退任後の生活と名誉、そして私の意思を必ず聞くこと。姫様はそれを受けた。意外だった。姫様は勝手に決める方だと思っていたが、勝手に決める“ふり”をして、実は一番怖いところは奥方に任せている。女の戦を、女にやらせる。
私は「勝手に決められるのは嫌です」と言ってしまった。言った後に血の気が引いたが、姫様は「よい」と言った。代わりに「勝手に逃げるのも許さぬ」と言った。逃げるなら勝って逃げろ、と。意味は分からないが、姫様の言葉はだいたい後から効いてくるので、今から胃薬を用意しておく。
利根川の治水より、私の縁組のほうが難しそうだ。私は今日、川になりたかった。川は曲げられても、嫁には出されないから。




