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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第236話 「香水“お市”と、銭の継承。ついでに跡取りの話じゃ」


西暦1555年10月26日(和暦:弘治元年 十月下旬)

駿河・駿府 狂犬堂駿府商館 → 武田商館(評定の間)/秋晴れ

 駿府の朝は、蝦夷より“匂い”が多い。

 潮の匂い、味噌樽の匂い、干物の匂い、そして――商人の金の匂い。

 その全部をねじ伏せる香りが、今日の狂犬堂商館には漂っていた。

「……姫様、香水、いつもより一割多いです」

「今日は二割じゃ」

「増やすの前提で会話しないでください!」

 寧々が帯を締めながら、震える手でツッコミを入れる。

 お市様は鏡の前で、余裕で笑った。

 バッチリのフルメイク。

 特上狂犬織の黒染め小袖――左右に白狼二匹。帯は紫、そこに白狼一匹。

 勝負服というか、圧で殴る服である。

「……綺麗……」

 思わず漏れた桃の声に、筆が床へ落ちた。

 ころん、と転がる音が妙に大きい。

「桃、筆が逃げたぞ」

「姫様の美しさが暴力過ぎて……!」

「暴力は良い。だが筆は拾え」

「はいっ!」

 寧々は着付けを整えながら、ほぼ拝んでいた。

 年々綺麗になる、というか、年々“勝てる顔”になる。そんな成長ある?

 お市様は、風呂敷包みを手に取った。

 休みの間に作った新しい白粉――奥様土産。

「三条殿と瑞渓院殿にな。女の味方は女じゃ」

「姫様、今それを言うと、何か企んでる匂いがします」

「匂いは香水で誤魔化せ」

「誤魔化せません!」

 そして藤吉郎。

 彼の腕には巻物が二つ、いや四つ分の未来が乗っていた。

「藤吉郎、関東詳細地図二枚、蝦夷詳細地図二枚。落とすなよ」

「姫様、これ地図というより石ですわ……」

「男が泣くな。地図で泣け」

「地図で泣いたことない!」

 元康と忠次が、左右から黙って背中を押す。

 ――行くぞ、という無言の圧。藤吉郎の胃が先に出発した。

 武田商館。

 評定の間には、すでに揃っていた。

 武田晴信。三条の方。

 北条氏康。瑞渓院。

 そして両家の家臣が数名。

 お市様が入った瞬間、空気が一段締まる。

 香水『お市』が、先に場を支配する。

「……ほう」

 氏康が小さく唸った。

「獅子が引かぬ媚びぬ――」

「引いてください、ここは商館です」瑞渓院が即座に刺す。

「瑞渓院!」

「あなたが獅子なら、私は檻です」

「檻が喋るな!」

「喋らない檻はただの木です」

 晴信は、笑わずに言った。

「まず、なにごとか。……集めて、と言われれば来るが」

「来るの早いの、晴信」

「駿府の噂は、馬より速い」

 お市様は、まず奥様方に風呂敷を差し出した。

 三条の方が受け取り、静かに目を細める。

「白粉……新しい品ですか」

「新しい配合じゃ。肌が雪になる」

「……雪」

 三条の方が微笑む。瑞渓院も、包みを軽く確かめた。

「土産で口を塞ぐ気ですね?」

「口は塞がぬ。だが肌は整う」

「さすが狂犬堂、論点が綺麗です」

 小さな笑いが落ちたところで、晴信が切る。

「で、本題だ」

「銭じゃ」

 お市様は即答した。

 家臣たちの背筋が揃う。

 銭――五か国連合の血。

「今、狂犬銭は桃が監理しておる。五か国を回るように、借金も融資もしておる。職人を雇い、銭を溶かし、発行し、流れを作っておる」

 桃は、背中に汗を感じた。

 褒められてるようで、首に縄が増えるタイプの語り口だ。

「今はよい。が――のちじゃ」

 お市様は、爪先で畳を軽く鳴らす。

 場の全員の視線が一点に集まる。

「武田から、北条から。まず“賢いオナゴ”を、桃の下につけよ」

「女を?」氏康が眉を動かす。

「女じゃ」

「男ではだめか」晴信が問う。

 お市様は、顔色一つ変えずに言った。

「男はな、権力を握ると、腹を切る羽目になる」

 藤吉郎が反射で「ワシの未来やん!」と呻く。

 忠次が無言で肘を入れる。

「ぐえっ……!」

「切腹はさせたくない。やめた後も地獄じゃ。恨まれる。嫌な仕事じゃ。胃が痛い」

「姫様が胃を語ると、妙に説得力がありますね……」元康が遠い目。

「元康も胃を鍛えよ」

「鍛え方が分かりません!」

 お市様は続ける。

「賢い女なら、数字に強くなる。嫁に行けば先方が喜ぶ」

 三条の方が、ふっと息を漏らした。

「……嫁に」

「武田が出したら、北条か狂犬に嫁ぐ」

「北条が出しても同じじゃ」

「出した家には帰さぬ」

 家臣たちのざわめきが、畳の目を走る。

「人質か」氏康が低く言う。

「違う。信用じゃ」

 お市様が、ぴしゃりと言い切る。

「戻れると思えば、甘えが出る。横領や不正は異常じゃ。最初から道を塞げばよい」

 晴信が、机を指でとん、と叩いた。

「……任期は」

「三年」

「短いな」

「短いほうがいい。任期は二回まで。計六年で引退じゃ」

「引退して、嫁に出すと」

「うむ」

 藤吉郎が、堪えきれず口を挟む。

「姫様、その……桃殿は、いまでも十分すぎるほど――」

「桃はいいオナゴぞ」

 お市様がさらっと言った。

「本人は嫌がるじゃろうがの」

「嫌がります!!」桃が即答した。

「ほら嫌がった」

「嫌がって当然です!」

 瑞渓院が、口元に笑いを浮かべる。

「面白い仕組みですね。銭の管理は“制度”より“人”が怖い。だから人を循環させる」

「うむ。人が腐る前に動かす」

「北条は出せます。武田も出すでしょう」

 瑞渓院が氏康を見た。

「あなた、異論は?」

「……異論はない。だが、北条の女は強いぞ」

「強いから任せるのです」

「理不尽だ!」

「理不尽に勝つのが北条です」

 三条の方も、静かに頷いた。

「武田も出します。晴信様、よろしいですね」

「……よい。面倒だが、面倒なほど価値がある」

 お市様は満足げに頷き、そこへ――藤吉郎の腕の巻物を指した。

「それと土産じゃ。詳細な関東地図と蝦夷地図、持ってまいった」

 藤吉郎が涙目で前へ出る。

「細かすぎて眠くなるがの」

「姫様、持ってきた本人がもう眠いです……!」

「寝るな。死ぬほど読め」

 晴信が地図を開き、目がきらりと光った。

 氏康も覗き込み、頷く。

「……これは、川筋と堤の弱い場所まで書いてある」

「来月から始まる」

 お市様が言った。

「関東治水の話じゃ」

 氏康の家臣がどよめく。

 武田の家臣も、顔色が変わる。

 戦より先に、水が国を滅ぼすことを皆知っている。

「治水は、刀より銭が要る」晴信。

「銭は回す。だが回し方を間違えれば、国が溺れる」お市様。

「……桃殿の胃が死ぬな」氏康。

「だから次の胃を育てるのだ」瑞渓院。

「奥様、言い方!」

「現実です」

 お市様は、少しだけ声を落とした。

 そして、最後の“もう一つ”を投げる。

「それと――わらわには、息子がおらぬ」

 場が静まる。

 お市様は続けた。

「跡取りはいらぬ。養子もいらぬ。が――武田と北条から、よい息子がいるなら出せ」

「息子?」晴信が眉を寄せる。

「爺つきでな」

「爺つき!?」藤吉郎が変な声を出す。

「爺は大事じゃ。教育と胃薬の係じゃ」

「胃薬係が標準装備なんですか!」

 氏康が、笑いを噛み殺しながら言う。

「名は捨てさせるのか」

「名は捨てぬでよい。武田の名も、北条の名も背負ったまま鍛えてやる」

「……鍛える、とは」

「戦と学問と商いじゃ。全部じゃ」

「また全部か!」藤吉郎が叫び、忠次にまた肘をもらう。

「ぐええっ!」

 三条の方が、そっと口を挟んだ。

「姫様、それは……“人材交換”ではなく、“人材育成”ですね」

「そうじゃ。未来を作るのは、銭と水と人じゃ」

「……水まで入れたか」晴信が苦笑した。

「関東は水で決まる。治水を制す者が、関東を制す」

 氏康は、瑞渓院と目を合わせた。

 瑞渓院が軽く頷く。

「北条も、候補を考えます」

「武田もだ」晴信が頷く。

「ただし」

 晴信が、お市様を見据えた。

「桃殿を六年後に嫁に出す、と言ったな」

「言った」

「桃殿が嫌がるぞ」

「今も嫌がっておる」

「聞こえてます!」桃が涙目で叫ぶ。

 お市様は、悪びれもせず笑った。

「桃は一生独身とか言ってるがの」

「言ってません! 言ってませんけど! 今は忙しすぎて! そういう話をする暇が!」

「忙しいなら嫁に出す」

「理屈が狂犬すぎます!」

 瑞渓院が、桃を見て、真顔で言った。

「桃殿。あなたが嫌がるほど、あなたは必要とされている」

「奥様……それ慰めですか脅しですか……」

「両方です」

 三条の方が、やさしく笑う。

「あなたの仕事は、国の背骨です。背骨は、強いほうがいい」

「背骨、折れます……」

 お市様が、ひとつ息を吐き、場を締めた。

「決まりじゃ。銭の継承、治水の始動、人の継承。全部、来月から動かす」

 そして、にやりとする。

「胃が痛い者は、仲間を作れ。――桃、仲間が増えるぞ」

「増やし方が強引です!」

 笑いとため息が混じった。

 だが全員が理解していた。

 今日の密議は、戦よりも未来を動かす。

 香水『お市』の匂いが、評定の間に残ったまま――。

祐筆桃の日記(西暦1555年10月26日/弘治元年 十月下旬)

 姫様は今朝、勝負服だった。黒染めの小袖に白狼が二匹、紫の帯に白狼が一匹。香水『お市』の香りが、廊下の空気まで変えた。私は筆を落とした。寧々殿は着付けをしながら震えていた。年々綺麗になる、というより、年々“逃げ道がなくなる美しさ”だと思った。

 武田商館の評定で、姫様は銭の話をされた。狂犬銭の管理を私が担っていること、今は良いが、のちが怖いこと。武田と北条から賢い女性を私の下につけ、学問と銭と職人の使い方を学ばせ、任期は三年、二回までで六年。引退したら嫁に出す。出した家には戻さない。不正を断つため、信用を守るため。姫様は「胃が痛い仕事」と笑って言ったが、笑って言える人ほど恐ろしい。

 さらに姫様は、関東と蝦夷の詳細地図を土産に出し、来月から関東治水を動かすと宣言された。水は刀より国を壊す。だから水を制するのだ、と。皆が黙ったのは、正しいからだ。

 最後に、姫様は「息子がいない」と言い、武田と北条に“よい息子”を出せ、と仰った。名は捨てなくていい、鍛える、と。姫様は人も銭も水も、全部“仕組み”にしてしまう。

 私は、六年後に嫁に出される、と言われた。嫌だ、と言った。姫様は笑った。

 怖い。でも、今日の話は必要だ。私一人の胃で国は回らない。

 筆を落とした朝から始まって、筆で未来を書かされる日になった。

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