第234話 「駿府、七日の“内地リハビリ”。噂、東海道を走る。」
西暦1555年10月25日(和暦:天文24年 九月末ごろ)
駿河・駿府 狂犬堂 駿府商館/秋
駿府の朝は、蝦夷の朝より“柔らかい”。
空気が薄くない。水が刺さない。風が牙を剥かない。
「……ぬるいの」
お市様は布団の中で、もそっと寝返りをうった。
「姫様、起きてください。昼になります」
忠次の声が、戸の向こうからしている。いつも通り淡々としているのに、どこか安心してしまう声だ。
「寝る。七日の休息じゃ。これは、命令じゃ」
「命令は、元康殿の方が通りが良いのですが」
「元康は優しすぎて、わらわに逆らえぬ」
「それを“優しい”とは言いません」
忠次の突っ込みが、戸越しでも鋭い。
――駿府で七日の休息。
蝦夷帰りの旗本先手役も、火縄銃兵も、鳴海や三河へ戻る前の“内地適応”として休ませる。
それが、狂犬お市様の判断だった。
「気温と水になれねば、病気になる」
お市様はそう言って、珍しく休みを与えた。
兵は最初「姫様、優しい!」と大喜びしたのだが――
「優しいんじゃない。合理的なんじゃ」
忠次が真顔で言う。
「病人が出たら、看病するのは誰だ」
「……わしらです」
「そういうことだ」
現場は現場で正直だった。
「姫様が優しい……いや、優しい……いや、でも胃が痛い……」
旗本先手役の誰かが、嬉しいのか怖いのか分からぬ顔で呟く。
蝦夷の寒さが抜ける前に、内地の湿り気が来る。身体が慣れるまでが勝負――お市様の理屈は正しい。
だが、休みの間に“別の熱”が走った。
年末年始、熱田で「帰還ライブ」。
この噂が、駿府の町で爆速で広がり、東海道を“人の足”より先に走ったのだ。
「熱田で、狂犬が歌うらしいぞ」
「歌うだけか?」
「熊の……着ぐるみも作るらしい」
「嘘やろ」
「嘘ならええけどな!」
噂は尾ひれをつける。
蝦夷の熊が、内地の熊になる。
商いの熊になる。
そして一番目ざとい者たちは、もう動いていた。
「在庫じゃ、在庫! 粉物と甘味、塩物、酒、全部寄せろ!」
「狂犬銭で釣り銭が足りん! 両替を回せ!」
「人が来る、確実に来る。熱田は盆と正月が一緒に来るぞ!」
熱田商人も、津島商人も、目が完全に商人の目だ。
商機到来。
棚卸し、調整、仕入れ、配送、値付け。
噂ひとつで市場が動く。狂犬堂経済圏の“呼吸”が、東海道にまで届いていた。
一方で当の本人は――驚くほど静かだった。
駿府商館の奥。
お市様は本当にゆっくりしていた。
よく寝て、起きては子狼を撫で、桃を掌に乗せ、湯を飲み、また寝る。
「姫様、疲れが溜まっていたのでしょうな」
元康が、廊下でぽつりと言う。
「蝦夷では毎日、地面と喧嘩してましたから」
「喧嘩に勝ったから今がある。だが、勝ち続けるには休みがいる」
忠次がそう返すと、元康は笑って頷いた。
休みは、兵だけではない。
心も、休む。
利家は、まつと久しぶりに町へ出た。
二人並ぶだけで、町の空気が少し甘くなるのが分かる。
団子屋の軒先、湯気の匂い。
「利家、団子は三本までやで」
「なんでだ」
「食べ過ぎたら、晩の親子丼が入らん」
「……親子丼は、まつの聖域だな」
「せや。土俵に上がるな」
まつがにこっと笑う。利家はその笑顔だけで、蝦夷の寒さを一段忘れた。
慶次は慶次で、ピリカと駿府を散策していた。
内地の賑わいに、ピリカの目が忙しく動く。
「これ、丸い…中に餡がある」
「今川焼きってやつだ。あったかいぞ」
「……甘い。口の中が、祭り」
「祭りはこれからだ。熱田でな」
慶次が言うと、ピリカは少し首を傾げる。
「熱田…人、いっぱい?」
「いっぱいどころじゃない。狂犬が“帰還ライブ”する」
「ライブ…?」
「歌って踊って、たぶん熊になる」
「熊?」
「熊」
ピリカが真顔になり、慶次も真顔になった。
そして二人して、同時に笑った。
屋台通りでは、狂犬印の煎餅が売られていた。
売り子が言う。
「狂犬の帰還祝い! 今のうちに食べとき! 熱田で買うたら行列やで!」
「もう行列前提なんだな……」
慶次が呟くと、ピリカが小さく頷いた。
「噂…走る。蝦夷より速い」
「確かに。蝦夷の風より速いわ」
その頃、商館の奥で――
お市様がふと、目を開けた。
「……七日、寝たら元気になるかの」
子狼の銀が尻尾を振り、雪が欠伸をし、つららが丸くなる。
桃は袖の中で、きゅっと鳴いた。
「姫様」
廊下から忠次の声。
「寝てます」
「起きている声です」
「……うるさいの」
「休みは許します。ですが、噂は休みません」
「知っておる」
お市様は、布団の中で笑った。
「噂が走るなら、走らせればよい。――走った先で、銭も走る」
「結局、商いですか」
「商いじゃ。わらわは狂犬堂の社長じゃからの」
駿府の七日。
それは“休息”であり、“次の仕込み”でもある。
蝦夷の土を踏んだ者たちは、内地の土を踏み直し、また次へ走る。
噂はもう、熱田へ届いている。
あとは――本番を待つだけだった。
祐筆桃の日記(天文24年 九月末ごろ/西暦1555年10月25日)
駿府にて七日の休息が始まる。蝦夷帰りの旗本先手役・火縄銃兵は、鳴海・三河へ戻る前に「内地の気温と水へ慣れるため」と姫様より休みを賜る。兵たちは「姫様が優しい」と喜ぶが、忠次殿いわく「合理」である。
年末年始の熱田“帰還ライブ”の噂が駿府の町で急速に広がり、東海道を伝い熱田方面へ走っている。熱田・津島の商人は商機と見て在庫調整を開始。噂が市場を動かす様を間近に見る。
姫様は休み中、本当に眠っておられる時間が長い。疲労が深かったのだと思われる。利家殿はまつ殿と町へ、慶次殿はピリカ殿と町へ。皆、久方ぶりの“戦のない日”を噛みしめている。
結論:休息は兵の薬、噂は商いの火種。どちらも、扱いを誤ると燃える。




