第231話 「白い卵タレ、蝦夷の旨味、駿府の朝」
西暦1555年10月18日(和暦:天文24年 九月下旬ごろ)
駿河・駿府 狂犬堂 駿府商館/早朝
まだ空が薄青い。駿府の朝は、蝦夷の朝より「ぬるい」。
寝床の中で丸まっていた子狼の銀・雪・つららは、暑さに負けて、舌を出してハアハアしていた。
「……ほれ、銀。おぬし、暑いなら水飲め。雪、つらら、毛がもふもふ過ぎるのじゃ」
お市様は三匹の頭を順番に撫でてから、台所へ入った。
台所には、すでに前田まつがいた。
寝癖も気合でねじ伏せた顔。料理人の目だ。
「姫様、朝から台所おるって、珍し……」
「珍しくない。わらわは医師であり、武将であり、社長であり、母であり、料理長である」
「母は誰の?」
「狂犬堂の」
「でた、でっかい母」
お市様は笑って、蝦夷から持ち帰った昆布を、まるで宝物みたいに持ち上げた。
「見よ、まつ。蝦夷の昆布じゃ。旨味が山の如し」
「昆布って、出汁の命やもんな……」
「そうじゃ。今日の朝は“蝦夷”を食う」
火にかけた鍋に昆布を沈め、沸く手前で引き上げる。
次に鰹節をひとつかみ――湯の中に踊らせて、香りを立ち上げる。
その香りだけで、台所の空気が変わった。
“あ、これは勝ち”の匂い。
「……ちょ、姫様。今の、出汁だけで飯いける」
「いけるじゃろ? だが、わらわは容赦せぬ」
お市様は白米を炊かせ、味噌汁の椀を並べ、鮭の塩焼きを網に乗せた。
蝦夷の鮭は脂が違う。焼ける音が、もう“ご褒美”だ。
「鮭、ええ匂い……」
まつが喉を鳴らす。
「で、姫様。うどんもやるん?」
「うどんもやる。朝は麺が要る」
「武田の奥様連中、今ごろ悔しがってそうやな」
「悔しがらせるのも外交じゃ」
そして、お市様は“最後の一品”に取り掛かった。
卵黄を器に割り入れ、塩、酢を少し。
そこへ油を、糸のように細く垂らしながら――ひたすら混ぜる。混ぜる。混ぜる。
白く、ねっとり、艶のある“タレ”が立ち上がった。
まつが目を細める。
「……何それ。卵が、白くなっとる」
「白い卵タレじゃ」
「名前、雑」
「中身が強ければ名は要らぬ」
「うちの親子丼も、それで押し切ろかな……」
次にお市様は、茹でた馬鈴薯の皮をつるりと剥き、潰した。
きゅうりを千切りにし、塩揉みして、ぎゅっと絞る。
潰した馬鈴薯に混ぜて、そこへ――さっきの白い卵タレを、どさり。
全体を、練るように混ぜる。
「……姫様、これ、何になるん?」
「蝦夷の知恵と、尾張の腹が合体したものじゃ」
「説明がフワフワしすぎ!」
お市様は、混ぜ終えた器を、まつの前に差し出した。
「試食」
「はいはい……どれ……」
一口。
まつの目が、見開いた。
「……なにこれ!」
二口。
「うっま!」
三口。
「この白いタレ、なんなん!? 酢のキレと、卵のコク、油のまろさ……え、化粧品会社が食の覇権まで狙いに来た!?」
「狙うに決まっておる。口から入るものも“美”じゃ」
「理屈が強い!」
お市様は得意げに腕を組んだ。
「白い卵タレじゃな。うまいじゃろ」
「うまい! 馬鈴薯に合う! きゅうりの塩気もええ! なにこれ、酒も進むやつ!」
「朝じゃ」
「朝でも進むやつ!」
そこへ、台所の外がざわついた。
匂いに釣られて、人が集まる速度が異常に速い。狂犬堂の“平時”である。
「……姫様、藤吉郎さん来ますよ」
「来い。留守番の功労者に、わらわの手料理じゃ」
食堂には、藤吉郎、元康、忠次、寧々、桃、そしてピリカまで座った。
ピリカはまだ内地の空気に慣れず、少し緊張している。だが、机の上の料理を見た瞬間、瞳がほどけた。
「これ……匂い、いい」
ピリカが小さく言うと、利家の顔がふっと緩む。
――それを、まつが見逃すわけがない。
「利家、目ぇ優しなっとるで」
「な、何がだ!」
「鮭見てる目ちゃう」
「鮭だ! 鮭がうまそうなんだ!」
「ほな鮭と結婚しぃや!」
「しない!」
寧々が笑いながら、味噌汁を配った。
「姫様、これ……出汁、昆布が強いのに、鰹が負けてない。すごいバランス」
「蝦夷の昆布は強い。だが、内地の鰹節も負けぬ。つまり――同盟じゃ」
「出汁で政治語るの、やめてもろて」
藤吉郎は、まず味噌汁をすすった。
そして、静かに泣いた。
「……姫様……生きててよかった……」
「おぬし、昨日も泣いておった」
「昨日は無事で泣き、今日は旨さで泣きます」
「胃痛は?」
「今は消えました……たぶん、あとで戻ります」
元康が、白い卵タレの馬鈴薯を口に入れて、目を丸くした。
「姫様……これ、三河に持ち帰ったら、百姓が踊ります」
「踊らせよ。踊りは労働の味方じゃ」
「踊りすぎたら田んぼが荒れます」
「ほどほどに踊らせよ」
忠次は黙って食べ、黙って頷いた。
そして、ぽつり。
「……蝦夷は、うまい」
それだけで、全員が笑った。
お市様は、満足そうに箸を置き、銀・雪・つららに水をやりながら言った。
「留守番ご苦労。蝦夷の旨味は、皆で分けてこそじゃ」
「姫様、これ、商品化します?」
桃が当然のように聞く。
「する」
「名前どうします?」
「白い卵タレ」
「雑」
「雑で売れる」
「……確かに」
食堂に、朝の笑い声が満ちた。
昆布の旨味、鮭の脂、馬鈴薯の甘み。
蝦夷は遠い。だが、舌の上なら、今ここにある。
「蝦夷はうまい!」
お市様が高らかに言うと、まつがすかさず返した。
「姫様、次は“親子丼に白い卵タレ”とか言い出さんといてな」
「言い出すに決まっておる」
「やめて! 私の城!!」
その瞬間、桃が静かに帳簿を開いた。
嫌な予感しかしない。
祐筆桃の日記(天文24年 九月下旬/西暦1555年10月18日)
早朝、姫様が台所を制圧。
蝦夷産昆布・鰹節で出汁を引き、味噌汁、鮭塩焼き、白米、うどん。さらに「白い卵タレ」なる新兵器を開発。馬鈴薯と胡瓜に和え、全員を沈黙させた(旨すぎて)。
藤吉郎は旨さで泣き、胃痛は一時停止。
元康は三河への輸出を妄想、忠次は「蝦夷はうまい」とだけ言って全てを終わらせた。
まつは美味に敗北しつつも、利家とピリカの空気に警戒度を上げた。
問題:姫様は「商品化する」と即答。
商品名:白い卵タレ(雑)。
結論:雑でも売れるのが狂犬堂。私は帳簿を開いた。胃薬も用意した。




