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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第230話 噂を喰って、祭りに変える


西暦1555年10月17日(和暦:天文24年 九月下旬ごろ)

駿河・駿府港/狂犬堂 駿府商館

 駿府港の潮の匂いが、まだ服に残っている。

 蝦夷の冷えと泥炭の煙、鮭の血と、乾いた毛皮の匂い――それらを引き連れて、狂犬お市様は商館の書付机の前にいた。

 桃が帳面を開き、寧々が荷札の束を抱え、まつが腕を組み、藤吉郎が「無事でよかったぁ……」と涙腺を緩めている、その――まさにその時。

「熊は! かぶって! おらぬ!!」

 お市様が机をバシバシ叩いた。

「姫様、机が死にます」

 桃が冷静に言う。

「死ぬのは机だけでええ! 噂を止めるのはわらわじゃ!」

「姫様、噂は止まりません。流通します」

「なら、流通に乗るのじゃ!」

 言い切った瞬間だった。

「キタ! キタ! キターーー!!」

 お市様の目が、寧々を真っ直ぐ射抜いた。

 そして、爆速で――ほんとに爆速で話し始めた。

「寧々! 聞け! 熱田に帰ったら年末年始、熱田で“わらわの帰還ライブ”じゃ!」

「……姫様、帰還“ライブ”?」

「そうじゃ! 帰還は祭り! 祭りは銭! 銭は世界を平らにする!」

「最後、なんか哲学混ざってません?」

「混ざっておらぬ、純度百じゃ!」

 寧々が「純度って何……」と目を泳がせた、その手を――お市様ががっしり握った。

「衣装じゃ、寧々衣装じゃ!」

「……はい?」

「熊の着ぐるみ作るぞ! めっちゃ可愛く! めっちゃ! 可愛く! じゃ!!」

 寧々の手が、ぶんぶん振り回される。

 ぶんぶん。ぶんぶん。ぶんぶん。

「姫様、寧々さんの腕、もげます!」

 桃が即ツッコミ。

「もげぬ! 寧々は強い!」

「私、針と糸の強さで生きてます!!」

 藤吉郎が、涙を拭いながらも、だんだん顔が青くなっていく。

「姫様……正月から……戦しませんよね……?」

「戦?」

 お市様が首を傾げる。

「戦ではない。ライブじゃ」

「それが怖いんです……!」

 まつが腕を組んだまま、ぼそっと呟いた。

「姫様、ライブって、誰が歌うん?」

「わらわじゃ」

「……誰が止めるん?」

「止める?」

「暴走を」

 そこへ、お市様は何事もなかったように続ける。

「あと、黒テン。黒テンが増えた。外套を作れ。冬の外套じゃ」

「黒テン外套……」

 寧々の目が職人の目に変わる。商売人の目でもある。

「それと、トドの皮! 雨用の外套じゃ。海風と雨は敵じゃからの」

「トド皮は……加工に癖があります。油抜き、手間です」

「手間は価値じゃ。寧々、価値を作れ」

「……はい。価値、作ります」

 桃が帳簿の端を指で叩いた。

「姫様、噂の“熊をかぶって歩いてた”は否定しておきますか」

「否定はする。だが使う」

「使う?」

「熊はかぶっておらぬ。だが、熊の着ぐるみは作る。噂が先に未来を作ったのじゃ」

「……意味が通ってるのが腹立ちますね」

「桃、褒めておるな」

「褒めてません」

 寧々は、すでに頭の中で布の在庫と型紙を組み立てていた。

 熊の着ぐるみ――可愛い、けど“狂犬”らしさも入れる。耳は丸い、目はきゅるん、でも牙は出す。狂犬の社長らしく、どこか威圧もある。

「姫様、熊の着ぐるみ……どこまで本気です?」

「本気じゃ。かわいさは兵法じゃ」

「兵法……」

「女の戦は“見せ方”が九割じゃ」

「……姫様、それ誰に教わったんですか」

「わらわに教官はおらぬ。天が教える」

 藤吉郎が、胃の辺りを押さえながら呻いた。

「天が教えるの、厄介なんですよ……!」

 まつが、じっと利家を見た。

 利家は気づかないふりをした。

 ピリカが利家の横に立っているだけで、まつの眉が一ミリ動く――その微差を、女同士は見逃さない。

 お市様は、そんな空気を面白がるようにニヤニヤしながら、三味線袋を肩に掛け直した。

「よし。帰還ライブの段取りは、寧々。銭と契約は、桃。人の配置は、藤吉郎。飲食は、まつ。――そして、わらわは歌う」

「姫様、私、飲食にされてません?」

「まつ、親子丼の女将じゃろ。世界は丼で回る」

「回りません!」

 桃が淡々とまとめる。

「結論:噂は否定しつつ、商品化する。いつも通りですね」

「いつも通りじゃ」

「胃が痛いのも、いつも通りです」

 藤吉郎が白目になりかけた。

 その時、商館の外から、潮騒と人声が押し寄せた。

 港の噂はもう、明日の予定まで作り始めている。

 ――狂犬お市、帰還。

 ――熊は被らぬが、熊を作る。

 ――正月、熱田で祭り。

 駿府の夜は、熱を帯びていった。

 そして、その熱を一番楽しんでいるのは――机を叩いていた当人だった。

祐筆桃の日記(天文24年 九月下旬/西暦1555年10月17日)

 本日、姫様ご帰還。全員無事。まずはそれが何より。

 ……のはずが、姫様は「熊は被っておらぬ!」と机を叩いた直後、噂を“利用”する方針へ即転換。

 年末年始「熱田・帰還ライブ」決定(私の許可は取っていない)。

 熊の着ぐるみ制作命令(可愛く、とのこと)。

 黒テン外套・トド皮雨外套の開発指示。

 噂を否定しながら、商品化して市場を取る――狂犬堂の基本戦略である。

 藤吉郎:涙→胃痛へ移行。

 寧々:悲鳴→職人の目に変化。

 まつ:静かに怒っている(理由は推察可能)。

 私は帳簿を閉じ、胃薬を探した。

 熊はいない。

 だが、熊は作る。

 世界は本日も姫様の速度に追いつけない。

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