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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第228話 「ぬるい海、刺さる視線」


西暦1555年10月17日(和暦:天文24年 九月下旬ごろ)

駿河・駿府港/狂犬堂商館

 津軽海峡を抜けた瞬間、潮の匂いが変わった。

 冷たい刃みたいな風が、背中を押す。

「追い風じゃ。全速前進!」

 狂犬お市様が甲板で腕を振ると、利家が肩をすくめた。

「姫様、船は馬じゃありません」

「似たようなもんじゃ。風を食うか草を食うかの違いよ」

「雑すぎる……!」

 慶次が腹を抱えて笑い、忠次が海図を押さえ直す。

 夜間航行もなんのその。

 船団は黒い海を裂いて南へ走った。灯りは最小、声も最小、合図は確実。――狂犬家臣団、なぜかこういう時だけ妙に統率が取れる。

「……あれが松島か」

 元康の声が、ふっと柔らかくなる。

 日本三景。

 大小の島影が水面に浮かび、月光を砕いてきらめく。全員が一瞬、言葉を忘れた。

「きれい……」

 ピリカが呟く。

 蝦夷の空も水も澄んでいたが、これはまた別の美しさだった。

「内地は内地で、やるじゃろ」

 お市様が得意げに言う。

「姫様の感想、いつも上からだな」

 慶次が即ツッコミを入れる。

 船はさらに南へ。

 房総半島を、少々“暴走”気味に回り込み――

「房総半島を暴走、って何ですか」

 忠次が冷静に言う。

「言葉のあやじゃ!」

「姫様のあや、だいたい危ないんですよ」

「黙れ」

 小田原城が遠くに見えた。

 北条の本拠。海沿いの要。

「あれが獅子丸の本店か」

「城を居酒屋扱いしないでください」

「早川殿が饅頭を売って――」

「売ってません」

 伊豆を回り込むあたりから、空気が変わった。

 風が柔らかい。潮が重い。肌にまとわりつく。

「……ぬるい」

 お市様が眉をしかめる。

「はい?」

「海がぬるい。空気もぬるい。暑いかもしれんの」

「それが普通の本州です」

「蝦夷基準で世界を測るの、やめてください!」

 忠次が珍しく声を張り、慶次がケラケラ笑った。

 その“ぬるさ”に、子狼たち――銀、雪、つららは、甲板の影で舌を出して「はあはあ」言っている。

 蝦夷の凛とした風で育ったせいか、内地の湿り気が堪えるらしい。

「軟弱になったか?」

「姫様、暑いんです。狼が悪いんじゃないです」

 元康が真面目に答える。

「ふむ……狼にも適応が必要じゃな」

「姫様にも必要です」

 駿河湾に入ると、水の色が深くなる。

 波が穏やかで、港の気配が濃くなる。

「……着いたのう」

 お市様が言った、その声にだけは少しだけ、安堵が混じった。

 駿府港。

 帆柱の森、荷の山、叫ぶ商人、走り回る小者。

 港は熱を持ち、金が動く匂いがする。

 狂犬堂商館の旗が見えた。赤地に狂犬紋。

 ――そして。

「……なんじゃ、あれ」

 岸壁に、人が四人、きちんと並んでいる。

 木下藤吉郎。

 木下寧々。

 前田まつ。

 祐筆桃。

 待っていた。まるで、そこが当然の立ち位置みたいに。

「お市様あああああ!」

 藤吉郎が先に叫ぶ。

「うるさい」

「無事でございますか!」

「当然じゃ。わらわは世界一の美人じゃからの」

「はいはいはい、それ毎回――」

 寧々が藤吉郎の口を“視線で”止めた。静かに、けれど確実に。

 船が接岸する。

 舫い綱が投げられ、桟橋が軋む。

 その時。

 利家の横に、ピリカが並んでいた。

 ピリカは蝦夷では「よくいる普通の娘」の顔で立っていたが――内地の港の喧騒の中では、妙に目を引いた。肌の白さ、目の強さ、凛とした佇まい。

 まつの視線が、そこに“刺さった”。

「……」

 まつは笑っている。笑っているが、目が笑っていない。

 ピリカが船から降りた瞬間、足がふらついた。

 長い航海と、初めての内地の熱と匂い。人の波。――情報量が多すぎた。

「あ――」

 小さく声が漏れる。

 利家が、反射で手を伸ばした。

 そっと、肘を支える。倒れない角度で。触れすぎない距離で。

「大丈夫か」

「……だいじょうぶ。ありがとう」

 ピリカは息を整えながら、頷いた。

 その光景を見て、まつの眉が、ほんの一ミリ動いた。

「……利家」

 まつが、にこっと笑って呼ぶ。

 怖い。

 利家が背筋を伸ばした。

「は、はい! まつ殿!」

「船旅、お疲れさん。……で?」

「で、とは?」

「その手、いつまで置いとくん?」

「えっ」

 利家が慌てて手を離す。

 ピリカは「?」という顔をしている。蝦夷では、手を貸すのは当たり前だった。倒れそうな者を支えるのは、当たり前だった。

 だが内地の空気は、“当たり前”の温度が違う。

 お市様は、その一連を見て――ニヤニヤしていた。

「ふふ……」

「姫様、何笑ってるんですか」

 桃が即座に釘を刺す。

「いやの。ピリカは蝦夷では普通の娘じゃが――」

 お市様は、まつの目を見て、さらに口角を上げる。

「内地じゃ、めっちゃ美人じゃ。のう?」

「姫様ぁ……!」

 まつが笑顔のまま、声だけ甘くなる。

「な、なんだ、その言い方……」

 利家が汗をかく。

 桃は帳面を開いたまま、淡々と言った。

「姫様。到着の挨拶は済みました。次は荷の検品です。毛皮と干魚と昆布、あと樽――医療用の焼酎二十樽」

「医療用じゃ」

「はい。医療用として計上します。……まつ殿、利家殿。ここ、港です。痴話喧嘩は後で」

「痴話喧嘩ちゃう!」

「……まだしてない」

 利家が小さく呟いて、まつに睨まれる。

 寧々はピリカに歩み寄り、柔らかく頭を下げた。

「ようこそ、熱田へ……の前に、まずは駿府へ。長旅でしたね」

「……寧々、さん。ありがとう」

 ピリカは真剣に言う。

「私は、勉強しに来た。姫様の役に立ちたい」

「十分、立ってますよ。まず“倒れそうな時は、遠慮せず座る”を覚えましょう」

 寧々の実務的な優しさに、ピリカが少し笑った。

 藤吉郎が、荷の山を見上げて口笛を吹く。

「うわぁ……蝦夷、儲かる匂いしかせん」

「儲かる匂いは港の匂いです」

 桃が即答する。

「蝦夷の匂いは、干魚と泥炭と――」

「狼」

 慶次がニヤつく。

 銀が「うぉん」と鳴き、雪が寧々の足元にくっつき、つららがまつの方を見て首を傾げた。

「……かわいいやん」

 まつが思わず言って、すぐに我に返る。

「いや、狼はかわいい。狼は」

「まつ殿、それ、誰に言い訳してるんですか」

「桃、黙れ!」

 お市様は桟橋に立ち、港の熱と金の匂いを吸い込んだ。

 蝦夷の冷たい風を背負って、内地の“ぬるさ”の中へ帰ってきた。

「よし。駿府で一息――」

「一息は許可されません」

 桃が即断。

「半息」

「半息も厳しいです」

「桃ぉ……!」

「帳面は情を挟みません」

「情は友達じゃろがい!」

 そのやり取りを、港の波が、穏やかに聞いていた。

祐筆桃の日記(天文24年 九月下旬ごろ/西暦1555年10月17日)

 本日、姫様、駿府入港。

 航海は無事。荷も概ね無事。狼三匹も無事。モモンガ一匹も無事。――そして、私の胃も一応無事。

 港で四人並んで待機していた件について、姫様は「なぜいる」と言った。

 私がいなければ、毛皮と干魚と昆布と樽が“気合い”で処理され、帳簿が死ぬ。だからいる。

 ピリカ殿、内地の熱でふらつく。利家殿が支えた。

 まつ殿の視線が刺さった。港の気温が一度下がった気がする。

 姫様はニヤニヤしていた。姫様は、たまに性格が悪い(※敬称略にしたいが祐筆のため我慢)。

 結論:

 蝦夷は寒い。内地はぬるい。

 そして人間関係は、どこでも熱い。

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