第227話 「函館、置いていくもの/連れて帰るもの」
西暦1555年10月1日(和暦:天文24年 九月下旬〜十月上旬ごろ)
蝦夷・函館港町 出航の朝
函館の朝は、骨にくる冷え方をする。
湯の川の湯気が薄く長く伸びて、港の丸太桟橋には、霜みたいな白さが残っていた。
狂犬お市様は、港の端で腕を組み、町をじっと見渡す。
丸太倉が十棟、豪雪対策の屋根は角度よし。塩蔵の樽は倉に積まれ、泥炭は乾かして山にしてある。畑は蝦夷富士の方へ広がり、川には孵卵小屋――鮭の子の越冬小屋が、目印の杭とともに、きちんと残っていた。
「……うむ。よし。及第点じゃ」
「姫様、“及第点”って言うとき、だいたい満足してますよね」
酒井忠次が、わざとらしくため息をつく。
「黙れ忠次。わらわは厳しいのじゃ」
「厳しい人は、町を見てニヤニヤしません」
「に、にやにやなどしておらぬ。風が冷たいだけじゃ」
「冷たい風で、口角だけ上がる現象、初めて聞きました」
隣で松平元康が、小さく笑った。
港の作業場では、越後の開拓武士たちが、出航の積み込みを手伝っている。責任者の本庄繁長は若いが、動きは早く、声も通る。越後勢は冬に強い。雪の怖さも、雪の使い方も、腹で知っている。
お市様は本庄の前へ歩み、手を差し出した。
「本庄、冬は頼む」
「はっ。函館もモルエラニも、預かります。コタンとの話も、コシャマ殿と相談しながら進めます」
「よい。――奪うな、壊すな、嘘をつくな。これだけ守れば、冬は越えられる」
「承知」
その後ろ、三河の旗本先手役三十人が並ぶ。石川数正、本田重次、高力清長、鳥居元忠。
土木も、鍛冶も、樽も、柵も、やらされ続けて、すっかり“戦国の職人集団”になってしまった面々だ。
「数正」
「はっ」
数正が膝をつくと、お市様は朱塗りの短筒を見やった。銘は――墨で乱暴に「お市」。
「短筒“お市”は預けたままじゃ。生きて持て。死んで返すな」
「……死ぬほど寒かったらどうします」
「死ぬほど寒いのが蝦夷じゃ。だから面白い」
「姫様の“面白い”は、だいたい現場が泣きます」
本田重次がぼやくと、高力が笑い、鳥居元忠が短く言った。
「覚悟、完了」
「よしよし。では、泣きながら強くなれ」
「鬼ですか」
「姫じゃ」
荷はすでに整っている。交易品と土産――昆布、干し魚、鮭の塩蔵、鹿の燻製、毛皮、泥炭の試し、そして蝦夷水ならの樽に入れた麦焼酎。
お市様が「医療用も兼ねとるし」と言って仕込んだやつだが、家臣たちは全員、目の色が違う。医療用と称した酒ほど危険なものはない。
ピリカは、積み荷の縄を確認しながら、顔を上げた。
希望で燃える目だ。蝦夷の風にさらされても、芯が折れない目。
「ピリカ」
「はい、姫さま」
「熱田へ来い。学びに来い。読み書きだけではない。商い、薬、契約、全部じゃ」
「……行きます。学びたいです。コタンの皆にも、後で返したい」
「うむ。よい子じゃ。――今日から幹部社員(仮)ではない。幹部社員(確)じゃ」
「言い方が……雑です」
ピリカが笑うと、忠次がすかさず突っ込む。
「姫様、そこは“正式に任命する”とか……」
「堅いのう。熱田は忙しいのじゃ。短く伝わればよい」
「契約書だけは長いくせに」
「契約書は長くてよい。逃げ道を塞ぐためじゃ」
「怖い!」
笑いが起きた。
笑いが起きる――それだけで、ここが“戦場の前線”じゃなく、“町”になったと分かる。
港の方へ視線を移すと、元康と忠次が、少し離れて海を見ていた。
船出の顔だ。
戦へ向かう顔ではなく、帰る顔なのに、なぜか寂しさが混じっている。
「元康、忠次」
お市様が呼ぶと、二人は振り返る。
「寂しいか」
「……はい」
元康が素直に言って、忠次が慌てて誤魔化す。
「潮風が目に入っただけです」
「函館湾の中で、潮風そんなに飛ぶか」
「飛びます。蝦夷の風は強いです」
「よろしい。寂しいのは、ここが“帰る場所”になった証じゃ。わらわらは来年また来る」
「来年……」
元康の声が少し明るくなる。
「次は馬を増やす。人も増やす。畑も広げる。交易も太くする。――それと」
お市様は、わざと間を置いて、にやりとする。
「湯の川温泉街を、ちゃんと作る。露天風呂の看板も立てる」
「結局そこですか!」
忠次が叫び、元康が吹き出した。
前田利家は、荷の端を担ぎながら、ふと遠くを見る。
熱田。鳴海。まつ。
婚約者の顔が浮かんだ瞬間、背筋が伸びる。叱られる未来が見える男の背筋は、妙に綺麗だ。
「利家、顔が“説教の予感”してます」
前田慶次が、ニヤニヤしながら言った。
「うるさい。叱られるのは、俺の役目だ」
「役目って言うなよ。夫婦みたいじゃん」
「まだ夫婦じゃない」
「時間の問題って顔してる」
「黙れ」
慶次は空を見上げる。
景虎姉上の顔が浮かぶ。鋭い目。淡い笑み。次の一手。
――そして、ふっと不安がよぎる。
「……景虎姉上、まさか鳴海に来てないよな?」
「来ていたらどうする」
お市様が楽しそうに聞く。
「逃げます」
「逃げるな。捕まれ」
「姫様、それ味方に言う言葉ですか」
「味方だから言うのじゃ」
そのとき、子狼三匹が、船縁で鼻を鳴らした。
銀、雪、つらら――生後八か月。大きくなったが、まだ顔は幼い。
モモンガ桃は、お市様の肩袋から顔だけ出して、きゅ、と鳴く。
「桃、落ちるなよ」
「きゅ」
「返事が良い。賢い」
「姫様、モモンガと会話成立させるのやめてください」
「成立しておる」
船は三隻。キャラック二隻、カラベル一隻。
そして、函館にはカラベル一隻を置く。越冬と沿岸の連絡用――“残すための船”。
最後に、お市様は港を振り返った。
深紅の狂犬旗が、風に鳴る。
白地に“毘”の旗も、並んで揺れる。
函館はもう、ただの入江ではない。名を持ち、旗を持ち、共同で守る場所になった。
「さらば函館。――また会うぞ」
それは感傷ではなく、予定だった。
帆が風を受け、船がゆっくりと港を離れる。
湯の川の湯気が薄くなり、丸太倉が小さくなり、畑が一本の線になる。
それでも旗だけは、最後まで見えた。
熱田へ。
狂犬堂の心臓へ。
そして――音速の中二病が待つ、あの騒がしい場所へ。
祐筆桃の日記(天文24年 十月上旬/西暦1555年10月1日)
蝦夷より、姫様帰還の報せが届いた。紙を読んだ瞬間、胸が軽くなるのに、胃が重くなるのは、私の体が仕事量で季節を判断しているせいだと思う。
函館は、本庄繁長殿と越後勢、そして三河の越冬隊三十名に引き渡し。姫様は「奪うな、壊すな、嘘をつくな」とだけ言ったらしい。短い。短いのに重い。あれで現場が動くのが、姫様の怖いところだ。
ピリカ殿が熱田へ来る。希望に燃えているらしい。私は最初に“帳面の読み方”と“契約の怖さ”を教えるつもり。優しさは守るために使う。油断は奪われるために使われる。
子狼は三匹、銀・雪・つらら。生後八か月。モモンガ桃も同行。動物が増えると場が和む――和むが、餌と小屋と世話人が必要になる。つまり帳面が増える。私は和みたい。だが帳面が増える。
港の受け入れ準備を今日から詰める。交易品の検品、蔵入れ、支払い、手当、そして――姫様の「次の予定」の聞き取り。
姫様が帰るのは嬉しい。だから今日も私は、笑って帳面を整える。笑っているうちに、仕事が片付くと信じたい。




