第223話 越後の雪支度、函館に着く
西暦1555年8月6日(天文24年・葉月六日ごろ/晩夏)
蝦夷・函館湾(狂犬旗の港)
港の見張り台から、子どもの声が弾んだ。
「きたー! 白い帆! でっかい!」
函館湾の沖合、水平線の上に白帆が浮いた。カラベル一隻、その後ろに安宅船が連なる。潮の匂いに混じって、馬のいななきまで聞こえた気がして、元康が目を細める。
「……馬、連れてきとるな。ついに来たか、越後」
お市様は三味線を背負ったまま、腕を組んでにやりと笑った。
「来たの。景虎姉上の“冬の番人”じゃ」
忠次が、いつもの落ち着いた声で確認する。
「人数、百。馬、十。荷の積み方、無駄がない。越後の気配でございます」
利家がそわそわしている。
「馬十頭……うちの槍より高いんちゃうか」
慶次が鼻で笑う。
「利家、それ言うたら姫様の三味線は値段つかんぞ。美声つきやし」
「おい、褒めてるんか煽ってるんか、どっちや」
「両方や!」
船団が湾内に入り、錨が落ちた。板が渡され、先頭で降りてきたのは若い武将――本庄繁長。鳴海以来の顔だ。潮風の中で姿勢を正し、膝をつこうとする。
「越後、直参、本庄繁長。開拓民百名、馬十頭。景虎様の御命により――」
「堅いのはやめい」
お市様が手を差し出した。繁長は一瞬だけ驚き、それから笑って、手を握り返す。
「……では。姫様、またお会いできて光栄です」
「うむ。よう来た。本庄、冬は頼む」
元康が横から入る。
「姫様、挨拶の二言目で丸投げかいな」
「信頼じゃ」
忠次が小声で元康にツッコむ。
「殿、姫様は“丸投げ”に見せて、責任の置き所をはっきりさせておられる。戦より怖い采配です」
「こわっ……」
上陸が始まる。開拓民は皆、手際がいい。雪囲い用の材、毛皮、乾いた縄、釘、塩、味噌桶。越後の準備は「冬が主君」だと言わんばかりだった。馬は落ち着いていて、蝦夷の草の匂いを鼻で確かめる。
利家が馬の首を撫でて、目を輝かせる。
「よしよし……お前、ええ顔しとるやん。わしの槍、好きか?」
慶次が腹を抱える。
「馬に槍聞くな! 嫌われる!」
「嫌われたら姫様の露天風呂で洗ってもらうわ!」
「それは褒美か罰か分からん!」
お市様は楽しそうに鼻で笑い、繁長を港の奥へ案内した。函館の丸太倉が十棟、豪雪に備えた屋根の角度。塩蔵の樽。泥炭の乾燥棚。湯ノ川の湯気が遠くに漂う。
「どうじゃ。越後の目から見て、冬を越せるか」
繁長は倉の梁を見上げ、頷く。
「梁の組み方、良い。屋根勾配も雪を落とす。火種が泥炭なら、薪を焦って伐らずに済みます。……ここは、勝てます」
「“勝てます”て言い方が越後じゃの」
元康が笑う。
「冬と戦う国やもんな」
その夜、到着祝いの大宴会になった。鹿肉の燻製、ホッケの干物、鮭の塩焼き、イカの一夜干し。焼酎が回り、麦のエールまで出てくる。コシャマのコタンからも人が来て、干し魚と木彫りの小物を持ち寄った。ピリカが間に立って言葉をつなぐ。
お市様が杯を掲げる。
「今日は無礼講じゃ。越後も函館もコタンも、腹いっぱい食え。働くのは明日からじゃ!」
「それが一番ありがたい!」
開拓民のひとりが叫び、場が笑いで揺れた。
酒が進んだところで、繁長が景虎姉上からの口上を取り出す。
「姫様。景虎様より。羅津商館、販売は順調。銀と黒テンの交換が増えております」
お市様は目を細めた。
「姉上、やっておるな」
「さらに、新拠点の話ですが――表には出しません。羅津を“表”に、拠点は“影”。売る場所は一つ、線は二つ三つ。追う者が迷う形で」
忠次が感心したように息をつく。
「兵法そのもの……」
元康が頬をかく。
「信長殿に聞かせたら、光の速さで真似しそうやな」
お市様が即答する。
「兄者は音速じゃからの。真似する前に飛び出す。危険じゃ」
慶次が笑って杯をあおる。
「姫様の“危険”は、だいたい正しい」
利家が繁長の背中を叩いた。
「で、本庄! 明日から狩り行くか? 温泉もあるぞ! 畑もあるぞ!」
繁長が真顔のまま返す。
「まずは現地説明をお願いします」
「まじめか!」
どっと笑いが起きた。
お市様はコシャマとピリカを繁長の前に座らせた。
「冬は、この二人と共同じゃ。コタンと話し合え。奪うな。押しつけるな。信用を積め」
繁長は杯を置き、深く頷いた。
「心得ました。越後は雪で生き延びてきました。人の信用も、同じく積むものだと」
「よい返事じゃ。……春になれば、わらわらは熱田へ戻る。だが、函館は残る。残る者が強くならねば、港は死ぬ」
外では、波が穏やかに砕けていた。
狂犬旗の下、越後の人々が笑い、コタンの子が走り回り、馬が鼻を鳴らす。
蝦夷の夏は短い。
だからこそ、この一夜の温かさは、冬を越える火種になる。
お市様は三味線を膝に置き、ぽつりと言った。
「姉上も、越後も、ようやった。函館は――次の段じゃ」
祐筆・桃の日記(狂犬記)
西暦1555年8月6日(天文24年・葉月六日)
越後開拓民百名、馬十頭、函館到着。責任者は本庄繁長。鳴海以来の握手、姫様は相変わらず早い。二言目で「冬は頼む」と言い切るあたり、任せ方が上手い。
宴会は無礼講。鹿肉、干物、焼酎、麦のエール。蝦夷の短い夏を、火種に変えるような夜。
景虎様の伝言。羅津商館は順調。新拠点は影に置き、羅津を表にして売る。余計な目を集めない兵術。姫様は「姉上らしい」と笑っていた。
冬の共同運営は、コシャマ殿とピリカ殿との信用が鍵。姫様は“奪わず、押しつけず、信用を積む”を徹底。帳簿に載らぬ資産は、たしかに増えている。
追伸:馬十頭到着で利家殿が浮かれていた。馬に槍の好みを聞くのはやめた方がよい。




