第221話 トヤの神歌「わたしの名前はお市です」
西暦1555年8月2日(天文24年・葉月二日ごろ/盛夏)
蝦夷・トヤ湖畔 コタン(集落)
トヤの水は、噂どおりに透きとおっていた。湖面に夕焼けがのび、火を起こした広場には、魚の匂いと燻製の匂いが混ざって漂う。
「……ええ夜やなぁ。湖が、鏡みたいや」
利家が見とれたように言うと、慶次が鼻を鳴らした。
「鏡? 鏡言うたら姫様やろ。湖が姫様に嫉妬しとるわ」
「おぬしら、口だけは達者じゃの」
狂犬お市様は、焼酎の杯を軽く掲げる。焚き火の赤が、その横顔をいっそう華やかに染めた。
今夜は宴だ。
トヤのコタンとの初めての大宴会。
お市様は、駿府から積んできた芋焼酎を樽で開け、ホッケの干物を炙らせ、鹿肉の燻製を山ほど並べた。コタンの村長も負けじと、鮭とマスの干し魚をどさりと出し、女たちが木皿で次々に回していく。
「うまっ……これ、なんや、甘いのに刺さる!」
元康が焼酎を一口飲んで目を丸くすると、忠次が真面目に頷いた。
「酒は人を繋ぐ、と。姫様の策は、いつも食から始まりますな」
「策とちゃう、趣味じゃ」
お市様は平然と言い切り、コタンの子どもに干し魚を一枚渡した。子どもはぱっと笑い、周りの大人たちの肩から、警戒が少しずつ落ちていく。
その変化を一番敏感に感じ取っていたのは、ピリカだった。彼女は村長の横で、言葉を行き来させる。
「村長、姫は、奪いに来たのではありません。交易と、共に暮らす話をしに来ています」
村長がじっとお市様を見る。
お市様はまっすぐに見返し、杯を置いた。
「ピリカ、こう言うてくれ。わらわは“仲良くして、儲けたい”と」
利家が吹き出した。
「姫様! 言い方ぁ!」
慶次は腹を抱える。
「嘘は言うとらん!」
元康が頭を抱える。
「直球すぎるやろ……」
だが、その直球が、今夜の空気には合っていた。村長は短く笑い、杯を軽く上げた。ピリカが訳す。
「なら、まず酒を飲め。腹が温まれば、心も温まる」
「よしきた!」
お市様は満面の笑みで、再び樽を叩いた。
宴が盛り上がるにつれ、コタンの女性たちの視線は、お市様に集まっていった。戦装束の女など、滅多に見ない。しかも、焚き火の光の中でなお、まばゆいほどの美しさ。
「……ほんま、姫様って、何であんな白いんや」
利家がぼそっと言うと、慶次が即答する。
「美は武器や。見た目で勝っとる」
「勝つな!」
そこへ、コタンの若い女が恐る恐る近づいてきた。頬を指さし、ピリカに小さく何かを言う。
ピリカが、お市様に伝える。
「姫……この白い粉、どうして?」
「ふふん」
お市様は待ってましたとばかりに、小さな包みを取り出した。
「試供品じゃ。狂犬堂の石鹸と白粉。塗り方は、わらわが教える」
元康が横で小さく呟く。
「宴会に、商売を混ぜるなや……いや、混ざるのが姫様か」
忠次が真顔で言う。
「混ぜ方が自然です。恐ろしい」
お市様は女性たちの手を取り、石鹸の香りを嗅がせる。
「肌は、落として整える。塗って隠すだけじゃ、長持ちせぬ」
「……いい匂い」
「雪の匂いみたい」
お市様は満足そうに頷いた。
「そうじゃ。雪みたいに、清く、強く、美しく」
慶次がすかさず指を立てる。
「最後の“美しく”だけ声がでかい!」
「当たり前じゃ!」
笑いが起きる。警戒がほどける。焚き火がさらに明るく見える。
その瞬間、お市様は背負っていた津軽三味線を降ろした。
撥を構え、ひとつ深呼吸。
「さて。酒と魚と化粧だけでは、友にはなれぬ」
利家が首を傾げる。
「ほな、何で友になるんです?」
お市様は、にやり。
「歌じゃ」
元康が嫌な予感に目を細める。
「……来るで」
ばちん、と弦が鳴った。
ジョンガラ節のリズムが、蝦夷の夜を切る。
最初はいつもの節。だが、お市様はすぐに、トヤの言葉と風景を織り込み始めた。ピリカが笑い、子どもが手を叩き、村長の目が細くなる。
「おお、ええぞ姫様! トヤ節や!」
慶次が煽ると、お市様は撥を止め、すっと顔を上げた。
「次は新曲じゃ。――“トヤの神歌”」
焚き火がぱちり、と爆ぜた。
「神歌……?」
誰かが息を呑む。
お市様は、ゆっくりと弦を鳴らし、澄んだ声で歌い出した。
「私の名前はお市です 母と父がいます
兄がいて中二病です もう一人の兄は引きこもりで草ぬいてます」
利家が盛大にむせた。
「ひ、姫様! 兄上たちの扱い雑ぅ!」
慶次は笑い転げる。
「草ぬき兄上、トヤまで届いたぁ!」
元康は額を押さえ、忠次は真顔で分析する。
「初対面の村に、家族事情を開示……情報戦の一種かもしれません」
「ただのノリじゃ!」
しかし、お市様は止まらない。声は澄み、よく通り、焚き火の上を飛んでいく。
「私の名前はお市です 狂犬堂の社長です
化粧品、酒、味噌、醤油売ってます 日本一の商店です」
コタンの男たちが「おお」と声を上げた。
女たちは笑いながら頷く。ピリカが訳すまでもなく、勢いで伝わる。
「私の名前はお市です 世界一の美人です
医師で優しく病気をなおします 薬はまかせてください」
ここで、村長が小さく杯を上げた。
ピリカが、お市様の横で声を添える。
「姫は、病を診る。金はいらない、と」
お市様は弦を鳴らしたまま、頷き返す。
「私の名前はお市です あなたと友達になりにきました」
最後の一節を歌い終えると、三味線の余韻が湖へ滑った。
しばし、静寂。
やがて、コタンの女たちが笑い、子どもが跳ね、男たちが杯を鳴らし始めた。
拍手が広場を埋める。
村長が立ち上がり、ピリカが訳す。
「友達になろう。酒を飲み、魚を分け、冬を越える。争わない」
お市様は、ゆっくり立ち、杯を掲げた。
「よし。友じゃ。……それと、職員募集じゃ!」
利家が叫ぶ。
「最後に戻るな!」
慶次が笑う。
「姫様、ほんまに“世界は膝まずく”やなぁ!」
お市様は得意げに胸を張った。
「膝まずかせるのではない。――笑わせて、近づけるのじゃ」
元康が湯気の立つ干物を一口かじり、しみじみ言う。
「蝦夷、ええ国やな。……姫様の歌が一番こわいけど」
忠次が真面目に締めた。
「本日、トヤのコタンとの関係は、友好へ。武力ではなく、酒と歌と商いで」
焚き火の火は、まだ高い。
トヤの水は静かに揺れ、今夜の「神歌」を、湖は全部覚えているようだった。
祐筆・桃の日記(狂犬記)
西暦1555年8月2日(天文24年・葉月二日ごろ)
本日、蝦夷トヤのコタンにて、狂犬お市様が宴会を開催。
焼酎・ホッケ干物・鹿肉燻製を振る舞い、先方より鮭・マスの干し魚の提供あり。初動としては上々、酒は交渉を加速させる。
特筆すべきは、お市様の新曲「トヤの神歌」。
自己紹介を歌にして、相手の笑いと警戒を同時にほどく技は、戦の勝ちより確実に“場”を取る。
「兄が中二病」「もう一人は草ぬき」など、身内ネタを異国の地で解禁する胆力は常人の域ではない。
コタン村長より「友」との言葉を引き出し、争わず交易・共生の道が開けた模様。
お市様は最後に「職員募集」を入れていた。抜かりなし。
なお、焼酎の消費が多い。蝦夷向け補給計画、前倒しが必要。




