第220話 トヤのコタン、酒と約束
西暦1555年8月2日(天文24年・葉月二日ごろ/盛夏)
トヤの湖畔を回り込むように、獣道をずんずん進む。
「ほんまにおるんか?」
利家が小声で問う。
「おる」
ピリカは迷いなくうなずいた。
「トヤのコタン。もうすぐ」
森を抜けると、視界がひらけた。
湖を背に、丸木で組まれた家がいくつか並ぶ。煙が立ちのぼり、子どもが走る。犬が吠える。
――コタン。
お市様は立ち止まり、旗本先手役に目で合図した。
「銃は下げよ。槍も立てるな。今日は戦ではない」
元康が静かにうなずく。
「隊列、緩めよ。ただし警戒は維持」
慶次がひそひそ笑う。
「姫様、今日は“酒外交”やな」
「当然じゃ」
ピリカが前に出て、アイヌ語で声をかける。
しばらくして、年配の男がゆっくり歩み出てきた。顔に深い皺、しかし目は鋭い。
「……あの人、村長」
ピリカが小声で告げる。
お市様は一歩前へ。
「はじめましてじゃ。わらわはお市。海の向こうから来た」
ピリカが丁寧に訳す。
村長はじっとお市様を見る。
美しい女が、武装した兵を従えて立っている。その違和感と迫力。
ややあって、低い声が返る。
ピリカが訳す。
「ここは、トヤの土地。なぜ来た」
お市様は、真っ直ぐ答えた。
「モルエラニに、港町をつくる」
ざわ、とコタンが揺れる。
利家が心の中で叫ぶ。
(いきなり直球やん!)
お市様は続ける。
「奪わぬ。ここは、そなたらの土地。わらわはモルエラニに住む。交易がしたい」
ピリカがゆっくり訳す。
村長は黙っている。
元康が一歩出る。
「魚、獣、毛皮、塩、鉄。互いに不足を補う。それだけの話」
忠次が補足する。
「銭でも、物でも、交換する」
村長の目がわずかに細まる。
ピリカがまた言葉を交わす。
そして、村長が問う。
「なぜ、戦わぬ」
お市様は即答した。
「戦は金にならぬ」
利家が吹き出しそうになるのを慶次が肘で止める。
「戦で得るより、交易で得る方が多い。血は雪を汚すだけじゃ」
ピリカが訳すと、村長の視線が少しだけ和らいだ。
お市様はさらに踏み込む。
「できたら、農をせぬか?」
「農?」
「馬鈴薯。ライ麦。寒さに強い作物じゃ。冬が楽になる」
元康がすかさず補足する。
「泥炭を燃やせば、寒さも凌げる。わしら、試しておる」
慶次が笑う。
「姫様、最近は“農業推し”や」
「うるさい」
村長は少し考え、また問う。
「なぜ、教える」
お市様は肩をすくめた。
「一緒に冬を越すためじゃ」
沈黙。
湖の風が吹く。
子どもが遠くで笑う。
お市様は、ふっと笑った。
「それと」
利家が嫌な予感で身構える。
「宴会をしよう」
慶次が天を仰ぐ。
「やっぱり来た」
お市様は堂々と続ける。
「酒を出す。肉も焼く。歌も歌う。熊で困っておるなら、退治もする」
ピリカが訳すと、コタンのあちこちでざわめきが起こる。
村長が低く問う。
「熊を、倒せるのか」
利家が胸を張る。
「人食いヒグマもやった」
慶次が槍を軽く回す。
「情けの槍でな」
「情けどこやねん」
忠次が真顔で言う。
「実績はあります」
お市様は一歩近づき、まっすぐ村長を見る。
「奪わぬ。欺かぬ。共に冬を越す。それでどうじゃ」
長い沈黙。
やがて村長は、ゆっくりとうなずいた。
ピリカが小さく息を吐く。
「……宴会、よい、と」
利家が小さくガッツポーズ。
慶次が笑う。
「やっぱ酒外交つえぇ」
お市様はにやりと笑う。
「では、準備じゃ!」
「早い!」
元康が慌てる。
忠次が苦笑する。
「酒樽、運びますか」
ピリカが村の女たちと話し始める。
子どもが狼の子――銀・雪・つららに近づき、きゃっきゃと笑う。
お市様はトヤの湖を振り返る。
「よい場所じゃな」
元康が静かに言う。
「ここは、守る価値がある」
「守るのではない」
お市様は軽く首を振った。
「育てるのじゃ」
湖面が夕日に染まり始める。
宴の煙が、ゆっくりと上がる。
蝦夷の夏は、また一歩、広がった。
祐筆・桃の日記(狂犬記)
西暦1555年8月2日(天文24年・葉月二日ごろ)
本日、姫様はトヤのコタンにて村長と会談。
モルエラニに港町を築く旨を率直に告げられた。普通なら揉める場面であるが、「奪わぬ」「交易する」「共に冬を越す」と三点を明言し、さらに宴会を提案された。
交渉の締めが宴会という様式は、もはや狂犬流の定石である。
馬鈴薯とライ麦の栽培を勧め、泥炭利用の話まで出たとのこと。
蝦夷にて、農業と交易と軍事と宴会を同時展開する姫様の頭の回転は、相変わらず恐ろしい。
「守るのではない、育てるのじゃ」との言葉は、本日の名言である。
なお、宴会の酒の消費量が心配である。
次便での補充計画を立てる必要あり。




