第219話 トヤ、当たり。世界は膝まずく(物理)
西暦1555年8月2日(天文24年・葉月二日ごろ/盛夏)
獣道を抜けた瞬間、視界がひらけた。
「……うわ」
思わず声を漏らしたのは、利家だった。
目の前に広がるのは、透き通った水をたたえる大きな湖――トヤ。陽が差すたび、水面がきらきらと揺れて、遠目にも魚影がすいすい走る。真ん中には小島がぽつんと浮かび、まるで湖が“ここが中心です”と自己紹介しているようだった。
慶次が口笛を吹く。
「姫様、また当たり引いたな。トヤ、めちゃくちゃ綺麗やん」
元康は水面をじっと見て、現実的に言った。
「魚……多いな。塩蔵も干しもいける。冬の備えが増える」
忠次は岸辺を眺め、足元の土を軽く踏んで確かめる。
「地面が湿り、黒い。泥炭も採れそうですな」
「それそれ」
お市様がニッと笑った。
さらに目を細め、湖畔のあちこち――ところどころ立ち上る湯気に気づく。
「……湯気が出ておる。温泉じゃな」
利家が反射で叫ぶ。
「姫様、温泉って言うたら即、専用露天作る気でしょ!」
「当然じゃ」
「当然なんや!?」
慶次が腹を抱える。
「湯気見ただけで当然が出る世界、蝦夷すげぇな」
お市様は湖面に向かって大きく頷いた。
「完全に――当たりじゃ」
元康が肩を落とす。
「……“当たり”判定が軽すぎる」
忠次が淡々と付け足す。
「ですが、当たっております」
「くっ……否定できん」
トヤの水は美しく、魚は豊富。
泥炭が採れるなら冬の燃料に困らない。
そして温泉。越冬地の条件としては、むしろ“揃いすぎ”だった。
ピリカは湖を見ながら、小さく呟いた。
「トヤ……昔から、大事な場所。こわい話も、ある」
「こわい話?」
慶次が興味津々で身を乗り出す。
「湖の主とか? でっかい魚とか?」
ピリカは首を振る。
「主……より、人。昔、争い。だから……ここに人、少ない」
元康がすぐ真面目な顔になる。
「人が少ないのは都合がいい。だが、居ないわけじゃない。近くに集落はあるか?」
そこで、お市様がピリカを見た。
目が、いつもの“商売と宴会の目”になっている。
「ピリカ。このあたりに蝦夷人、アイヌはおるのか?」
ピリカは少し考え、指で遠くの森を示した。
「いる。湖の北。川の向こう。夏は移る。近くに来る日もある」
「よし」
お市様は即断した。
「いるなら、引っ越してきたからの。酒を出して、宴会じゃ」
利家が即ツッコミ。
「挨拶=宴会の辞書、やめて!」
慶次が嬉しそうに煽る。
「ええやん、姫様の外交術や。酒と歌で落とす」
忠次が冷静に確認する。
「“落とす”の意味が危ういですが、友好は必要ですな」
お市様はうなずき、さらに当然のように続けた。
「ついでに、狂犬堂職員募集じゃ」
元康が頭を抱える。
「出た。職員募集を“ついで”にするやつ」
利家が半泣きになる。
「しかも断れへんやつ……」
ピリカは警戒の目を残しつつも、前よりは落ち着いている。
前の函館で、お市様が“奪わない、壊さない、買う、交換する”を貫いたのを見ているからだ。
ピリカが慎重に言う。
「姫様……ほんとうに、奪わない?」
「奪わぬ」
お市様はきっぱり言った。
「欲しいものは、銭で買う。銭がいらぬなら、物々交換じゃ。血で取るのは下策じゃ」
「……わかった」
ピリカが小さく頷いた、その瞬間。
お市様が、背中の荷を外した。
利家が嫌な予感で固まる。
「……姫様? それ、まさか」
布を解く。
木の胴が現れる。
骨太な――津軽三味線。
慶次が手を叩いた。
「来た来た! 姫様の“挨拶装備”!」
元康が低い声で問う。
「ここで、やるんですか」
「ここでやる」
お市様は三味線を抱え、湖を背にして立った。
トヤの風が髪を揺らし、湖面が小さく波立つ。銀・雪・つららが足元で尻尾を振り、状況を理解していない顔で見上げている。
お市様は一度、深く息を吸った。
そして――堂々と、豪語した。
「わらわには、世界一の美と、この歌声がある」
利家が呻く。
「出た……世界一……」
慶次がニヤニヤする。
「姫様、今日も自信が富士山級やな」
忠次が淡々と補足する。
「蝦夷富士よりは大きいかと」
「比較対象やめろ!」
利家が叫ぶ。
お市様は気にせず、さらに言い放った。
「世界は、わらわに膝まずくのじゃ!」
元康がぼそっと。
「膝まずくのは、うちの人手です」
「黙れ元康。推し活が足りぬ」
「推し活って何です!?」
慶次が笑い転げる。
「姫様、“みな、わらわの推し活ぞ!”って、世界に向かって言うの強すぎるやろ!」
「強いのは正義じゃ」
お市様は撥を握り、構えた。
ピリカが慌てて止めようとする。
「姫様、歌、知らない人……こわいかも」
「なら、怖くない歌にする」
「どんな歌?」
お市様は、湖へ向かってにやりと笑った。
「題して――『引っ越してきました、よろしく。ついでに職員募集』」
利家が崩れ落ちる。
「最悪や……歌詞に募集入れた……」
慶次が拍手喝采。
「最高や! トヤの主も膝まずくわ!」
そして、津軽三味線の音が――トヤの湖面を切った。
キィン、と澄んだ一音。
ズン、と腹に響く胴鳴り。
水鳥が飛び立ち、森がざわめく。
遠くで、誰かの気配が――ほんの少しだけ、動いた気がした。
元康が小声で忠次に言う。
「……寄ってきますかね」
忠次は静かに頷く。
「寄ってきたら宴会。逃げたら追いません。――たぶん」
「“たぶん”が怖い」
お市様は、演奏を止めない。
自信満々に、世界へ向けて鳴らし続ける。
トヤの湖に、狂犬の歌が落ちる。
膝まずくのが先か、逃げるのが先か。
――蝦夷の夏は、今日も忙しい。
祐筆・桃の日記(狂犬記)
西暦1555年8月2日(天文24年・葉月二日ごろ)
本日、姫様はトヤという美しい湖を発見された。
水は透き通り魚影が濃く、泥炭も採れ、湯気まで立つ――越冬地として条件が揃いすぎているため、姫様は即座に「完全に当たり」と判定された。判定が早い時ほど、現場が忙しくなるのが狂犬堂の法則である。
姫様はピリカ殿に「このあたりにアイヌはおるのか」と問われ、
「いるなら引っ越してきたからの、酒を出して宴会じゃ」と仰せになった。
さらに「狂犬堂職員募集じゃ」と続き、募集が“挨拶の一部”になっている点は、もはや姫様の様式美である。
そして背負っていた津軽三味線を抜き、
「わらわには世界一の美とこの歌声がある。世界はわらわに膝まずくのじゃ」
と豪語された。
“膝まずく”の対象が世界なのか、周囲の労働力なのか、判別が難しい。
とはいえ、姫様は奪わず、買い、交換し、共に冬を越す方針を崩さない。
酒と歌で始まる友好は乱暴に見えて、実は筋が通っている。
問題は、その筋の通し方が常に音速であることだけだ。




